ドイツ帝国の政治家ゲオルク・ミヒャエリスGeorg Michaelis
1917年、宰相就任頃の肖像写真
生年月日1857年9月8日
出生地 プロイセン王国
シュレージエン属州
ゲオルク・ミヒャエリス(またはミハエリス、Georg Michaelis, 1857年9月8日 - 1936年7月24日)は、ドイツの大蔵官僚、政治家。第一次世界大戦中の1917年に最初の非貴族出身として、第6代帝国宰相を務めた。独逸学協会名誉会員[1]。 ゲオルク・ミヒャエリスはシュレージエン地方のハイナウ(現在のポーランド領シロンスク地方、ドルヌィ・シロンスク県ホイヌフ
経歴
この頃、独逸学協会(Society for German Sciences)などの政府高官の呼びかけで、官立ではないものの獨逸学協会学校(ドイツ学協会学校、現在の獨協大学の前身)が設置されており、当時の駐ドイツ公使青木周蔵もその設立に関わっていた。青木は法学博士の派遣をドイツ政府に要請し、ミヒャエリスが指名されたが、この時ミヒャエリスはまだ博士号を持っていなかった。しかし、ゲッティンゲン大学法学部長であるルドルフ・フォン・イェーリングが法学博士を与えるというので現地に向かうと、面接だけで博士号が与えられた。これは、イェーリングの代表作『権利のための闘争』(Der Kampf ums Recht) の初の日本語訳が当校の初代校長である西周によって進められており、イェーリングはその便宜を図るためにミヒャエリスへの博士号授与に同意したためであった[2]。
1885年(明治18年)、日本に招聘され、1889年まで東京に滞在する。この間、獨逸學協會學校教頭、法学教授となり法律学を講義した。帰国後、プロイセン王国政府に入り、1909年6月に大蔵省(財務省)次官となる。第一次世界大戦中の1915年7月、枢密顧問官に指名されるとともに、プロイセン食糧庁 (Reichsgetreidestelle) 長官に就任し、小麦やトウモロコシなど穀物管理に当たった。 ライヒ議会と陸軍最高司令部(OHL)がライヒ宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークの辞任を強行すると、1917年7月14日、後任のライヒ宰相・プロイセン首相となる[3]。彼はプロイセン大蔵省次官、戦時食糧庁長官として何度か陸軍最高司令部を訪れ、その無愛想な態度はその場にいた幕僚に好印象を与えた[4]。ミヒャエリスはドイツ初のブルジョワ宰相と評され[5][6]、ホーエンツォレルン王朝の400年にわたるプロイセンおよびドイツ支配の中で唯一爵位を持たない人物がライヒ宰相に就任したからである。
ライヒ宰相就任