ゲオルク・フィリップ・テレマン
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ゲオルク・フィリップ・テレマン
Georg Philipp Telemann

基本情報
出生名Georg Philipp Telemann
生誕1681年3月24日
出身地 ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ブランデンブルク選帝侯領
マクデブルク
死没 (1767-06-25) 1767年6月25日(86歳没)
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
自由ハンザ都市ハンブルク
ゲオルク・フィリップ・テレマン(1745年頃)テレマンの肖像画(1764年)ソラウ(現在のポーランド領ジャリ)のテレマン像テレマンのサイン(1714年と1757年)ハンブルク市庁舎の記念碑.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann、ドイツ語発音: [ge??rk/?ge??rk ?fi?l?p ?te?l?man][1](ゲオルク・フィーリプ・テーレマン[2])、1681年3月24日 - 1767年6月25日[3])は、ドイツ作曲家
人物

テレマンは後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家で、40歳以降は北ドイツのハンブルクで活躍した。18世紀前半のドイツにおいて高い人気と名声を誇り、フランスでの人気も高かった。クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として知られる。自身もヴァイオリンオルガンハープシコードリコーダーリュートなど多くの楽器を演奏することができ[4]、特にヴァイオリンとリコーダーについては高い技術を有する名人であった。

同時代の作曲家であったゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人で、頻繁に手紙のやり取りをしていた[5]ほか、ヨハン・ゼバスティアン・バッハとも親密な交友関係にあり、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル名付け親にもなった[6]。また、1750年にバッハが死去した時には、バッハの業績を最大限に称える追悼の言葉を送っている[7]

彼の音楽様式には、20歳代?30歳代に触れたフランス[8]・イタリア[9]・ポーランド[10]民族音楽、特に舞曲からの影響があり、ドイツの様式も含めてそれらを使いこなし、ロココ趣味の作風も示した[4]。彼は86歳と長生きだったため、晩年はハイドンの青年時代などと重なり、高齢でも創作意欲が衰えなかった。トリオソナタの編成で『ディヴェルティメント』と書かれた晩年の作品もあり、常に新しい音楽傾向の先頭に立ち続けた。日本ではテレマンへの注目も高く、日本テレマン協会が1969年に発足(当時は大阪テレマン協会)して現在に至っている。
生涯
ハンブルク以前

テレマンは1681年、ドイツ東部マクデブルクの中流家庭に生まれ、ルター派 プロテスタントの洗礼を受けた[11]。父ハインリヒ(1646-1685)は伝道師で、テレマンが4歳になる前に亡くなり、やはり先祖が牧師の家系であった母マリア(?-1710)に育てられた。テレマン家もバッハ家ほどではないが先祖に何人かの音楽家を出している[12]

マクデブルクの小学校ではヴァイオリンリコーダーツィターなどを演奏して級友と音楽に親しんだ。10歳で同地のギムナジウムに出席するようになり、カントルからドイツの詩や文学について高いレベルの指導を受けるようになった。ラテン語ギリシャ語の成績がよかったが、音楽については短期間で長足な進歩があったので歌唱指導を任せられた。その間カントルが作曲しているスコアを後ろから見るのが楽しく、なぜか興奮したと自叙伝に述べている[13]

やがてほとんど独学で楽譜の書き方を習得し、自分でも作曲を始めるようになり、12歳でオペラを作曲した。テレマンの母は息子が音楽の道へ進むことには反対であったが、テレマンは楽器を取り上げられたり音楽活動を禁じられたりしても隠れて作曲の勉強を続けた[14]

およそ13歳の頃、彼は母の方針により、音楽から引き離す目的でツェラーフェルト(ドイツ語版)に追いやられることになった。しかし、ここでは病気の教師に代わって作曲・指揮を行い、成功を収める。4年後、ヒルデスハイムに移ってギムナジウムで学んだ。ここでは校長が書いた劇のアリアを作曲して好評を得た。当時は1年生150人の生徒の中で3番の成績であったとテレマン本人は自慢している[15]。在学中にヒルデスハイムからほど近いハノーファーブラウンシュヴァイクにしばしば出かけ、劇音楽教会音楽イタリア音楽に触れた。

1701年(20歳)になったテレマンは、母の意向に従って大学に通うことに決め、ライプツィヒに向かった。途中立ち寄ったハレで、すでに有名になっていた若いヘンデルと知り合い[16]、後年ヘンデルがイギリスへ移住してからも彼らは互いに手紙で交流を続ける間柄になった。ライプツィヒ大学では法学を学ぶ[17]と同時に、学内では学生と市民からなる楽団コレギウム・ムジクムを統率した[18]


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