ゲオルク・ビューヒナー
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ゲオルク・ビューヒナー
Georg Buchner
アドルフ・ホフマンによるビューヒナーの肖像(1835年)
誕生1813年10月17日
ヘッセン大公国(現ドイツヘッセン州)、ダルムシュタット
死没 (1837-02-19) 1837年2月19日(23歳没)
スイスチューリヒ
職業革命家劇作家自然科学者
ジャンル戯曲小説
文学活動三月前期(de:Vormarz)
代表作『ダントンの死』、『ヴォイツェック』、『レンツ
親族ヴィルヘルム・ビューヒナー(弟)
ルートヴィヒ・ビューヒナー(弟)
ルイーゼ・ビューヒナー(妹)
アレクサンダー・ビューヒナー(弟)
影響を受けたもの

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテウィリアム・シェイクスピアヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ

影響を与えたもの

ゲアハルト・ハウプトマンフランク・ヴェーデキントベルトルト・ブレヒト

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カール・ゲオルク・ビューヒナー(Karl Georg Buchner、1813年10月17日 - 1837年2月19日)は、ドイツ革命家劇作家自然科学者
概略

ヘッセン大公国に生まれ、フランス領ストラスブール、次いで地元ギーセンで医学を学ぶ。ギーセン大学在学中に反体制運動に関わり、ルートヴィヒ・ヴァイディヒとともに扇動文書『ヘッセン急使』を執筆。しかし扇動は失敗に終わり、警察の手を逃れて亡命、ストラスブール、次いでチューリヒで自然科学の研究に携わったが、チフスに罹患し23歳で客死した。

その短い生涯の間に書かれた文学作品『ダントンの死』『レンツ』『レオンスとレーナ』『ヴォイツェック』は20世紀になってから再発見され、自然主義表現主義をはじめ後世の文学に大きな影響を与えた。彼の名を冠したゲオルク・ビューヒナー賞は、現代ドイツにおいて最も権威のある文学賞である[1]
生涯
家系と家族

ゲオルク・ビューヒナーは1813年ヘッセン大公国ダルムシュタット近郊の小村ゴッデラウに医師の息子として生まれた。父方は代々風呂屋を生業とする家系であったが、ゲオルクの高祖父の代から外科医の仕事を家業とし、ゲオルクの父エルンスト・カール・ビューヒナーもこの仕事についている[2]。エルンストはナポレオン軍に従軍医師として参加した経験を持ち、彼自身ナポレオンの信奉者だった。エルンストは夕刻になると、フランス革命の後に出版された雑誌『現代』を子供たちの前でたびたび朗読し、それに自身の体験を補足して聞かせていたという[3]。一方母カロリーネの家系であるロイス家は代々官僚を務めており、カロリーネの父ももともとはアルザス地方の高級官僚であったが、フランス革命の時にこの地方がフランス共和国に統合されたため、幼い子供たちを連れてヘッセンに逃れてきた[4]。フランスびいきのエルンストとは逆にカロリーネは愛国主義者であり、シラードイツ・ロマン派の文学作品を愛好するなど教養ある女性であった。彼女は幼いゲオルクに聖書や民話を語って聞かせ、また初歩的な読み書きを教えた。ゴッデラウにある生家

ゲオルクは6人兄弟の長男であった。早世したゲオルクを除けば兄弟はみな長寿を全うしており、それぞれの分野で優れた業績を残している。次男のヴィルヘルム・ビューヒナーは成功した化学工場の所有者であり、ヘッセン州議会の議員にもなっている。三男ルートヴィヒ・ビューヒナーは医業を継ぎつつ、生物学的唯物論の著書『力と質量』によって国際的な評価を得た哲学者であり、当時は兄ゲオルクをしのぐ名声を得ていた。ゲオルクの最初の著作集を出版したのもルートヴィヒである。次女ルイーゼは、兄ゲオルクをモデルとした小説『ある詩人』などの著書のある作家であり、また初期の女性解放運動にも関わっている。末子アレクサンダー1848年の革命運動の際にフランスに移り、この地で文学史の教授の職を得ている。しかし彼は、自分のもっとも身近にあった才能には気付かなかった[5]
ギムナジウム時代

神学者の経営する私塾で予備教育を受けた後、ビュヒーナーは1825年にダルムシュタットのギムナジウムに入学する。ここでビューヒナーはラテン語、ギリシャ語、イタリア語、ドイツ語、宗教学、歴史学、考古学などの分野で優れた成績を残したが、数学は苦手分野であった[6]

ギムナジウムでは、ビューヒナーは親しい友人たち(その中には後に地下運動に関わるミニゲローデがいた)からなるグループで政治談議を行い、またシェイクスピアの輪読会を開くなどしている。ビューヒナーはこの時期に文学作品を濫読しており、シェイクスピア、ゲーテホメロスアイスキュロスソフォクレスを好んだほか、ジャン・パウルヘルダーロマン派の作家や当時のフランス文学も評価していた。この時期に特にビューヒナーが感銘を受けていたのはゲーテの『ファウスト』であり、一方シラーについては、尊敬しながらもその修辞的な文章を批判していた[7]

ビューヒナーのギムナジウム時代の作文として「自殺についての一論文への批判」、小カトーの自死を弁護する「ウティカのカトー論」、三十年戦争での戦死者をテーマにした「四百人のプフォルツハイム人の壮烈な戦死」の3編がまとまった形で残っており、名誉の死を称えるこれらの文章にはフィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』からの強い影響が窺える[8]
ストラスブール大学時代

ギムナジウムを卒業したビューヒナーは、半年ほど父の元で医学研究の準備をした後、1831年にフランス領ストラスブールに留学、父の意向に従ってストラスブール大学の医学部に籍を置いた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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