ゲオルギー・プレハーノフ
[Wikipedia|▼Menu]
ゲオルギー・プレハーノフ

ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ・プレハーノフ(Георгий Валентинович Плеханов, Georgij Valentinovich Plekhanov, 1856年12月11日ユリウス暦11月29日) - 1918年5月30日(ユリウス暦5月17日))は、ロシア社会主義者。ロシア・マルクス主義の父と称される。生涯に渡ってヴォルギン、ウシャコフ、カメンスキー、ベルトフ、ヴァレンティノフ(同年代のジャーナリストニコライ・ヴァレンティノフは別人)などおびただしい偽名を用いていた。
生涯[ソースを編集]

タンボフ州グダロフカ(Gudalovka)のタタールの世襲貴族の家に生まれ、陸軍士官学校、鉱山学校に学ぶ。

1875年から革命運動に投じ、はじめはナロードニキの秘密結社土地と自由に属したが、1879年に分裂した際は人民の意志に反対する黒い割替派の指導者となる。1880年に国外に亡命後、第一インターナショナル運動を知り、1882年マルクスエンゲルスの『共産党宣言』をロシア語に訳して公刊し、その後マルクス主義の有力な宣伝者となった。黒い割替派の同志だったヴェーラ・ザスーリチパーヴェル・アクセリロードなどとジュネーヴにおいて労働解放団を組織し、マルクス主義文献を翻訳して故国に働きかけた。

1889年の第二インターナショナルの創立に参加し、1900年レーニンの《イスクラ》紙発行に協力した。1903年ロシア社会民主労働党の第2回大会後まもなく、メンシェヴィキに与した。1904年に日露戦争が勃発すると、同年8月の第二インターナショナルアムステルダム大会の開会式でロシアと交戦中の日本代表の片山潜と握手し、帝国主義の枠に捉われない労働者の反戦を訴えた。ロシア第一革命(1905?07年)では武力蜂起に反対し積極的な行動をとらなかった。革命が挫折した反動期にボリシェヴィキに接近し、メンシェヴィキの解党運動やマッハ主義哲学の流行に対して論争した。

第一次世界大戦中はロシアのドイツに対する戦争に賛成し、1917年のロシアでの二月革命後も態度は変わらず、十月革命にも反対の立場をとる。二月革命直後に連合国側の後押しもあって静養中のサンレーモから帰国し、最初は熱狂的に歓迎されたが、レーニンらの体制に幻滅し、十月革命からわずか3日後の旧暦10月28日(新暦11月10日)、「ペトログラードの労働者への公開状」をザスーリチ、レフ・デイチらとともに発表して十月革命を『史上最大の災厄』であり、結果として内戦を引き起こして二月革命の到達点よりもはるか後方に後退するだろう、と批判。結果、その翌日には兵士らに家宅捜索を受け、密に出国して翌1918年フィンランドのテリヨキ(Terijoki、現サンクトペテルブルク近郊のゼレノゴルスク)で結核により死去。ペトログラードのヴォルコフスコエ墓地の、ベリンスキーの墓近くに葬られた。

ボリシェヴィキ政権は、彼の死後には初期の論文のみを出版し、プレハーノフ記念ロシア経済アカデミーおよびG・V・プレハーノフ・サンクトペテルブルク国立鉱山大学に彼の名を付けるなど政治的に利用した。

プレハーノフの晩年のレーニン批判がロシアで出版されたのはソ連崩壊後であり、以降再評価が進められた。
業績と影響[ソースを編集]

プレハーノフの政治活動は、当時のロシア左翼で支配していたナロードニキ思想への批判から始まった。ロシアで起こっていた社会構造の変化を見守り、農村共同体は崩壊し、革命の担い手となることができないことを知る。ロシアは社会主義に進み始める前に、資本主義的発展を経過しなければならない、来るべき革命はブルジョア革命である、と考えた。したがってロシアで生まれ始めた労働階級は、帝政から政治権利と自由を奪い取ることを目的とするべきである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:15 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef