ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン
[Wikipedia|▼Menu]
ベノッツォ・ゴッツォリ “プレトン”

ゲオルギオス・ゲミストス“プレトン”(ギリシア語:Γε?ργιο? Γεμιστ?? ? Πλ?θων, ラテン文字表記:Georgios Gemistos, Plethon, 1360年? - 1452年)は、東ローマ帝国末期パレオロゴス王朝時代のプラトン学者で、「パレオロゴス朝ルネサンス」を代表する人物の一人。フィレンツェ公会議の際に行ったプラトン講義(1439年)は、イタリアのネオプラトニズム隆盛の一因となった。中世ギリシア語読みでは「イェオルイオス・イェミストス、イ・プリトン」。

“プレトン”はペンネームであり、古代の哲学者プラトンに擬えたものである。また、“プレトン”も姓の“ゲミストス”も「満ちる」を意味している。彼の支持者たちは彼を「第二のプラトン」「プラトンに次ぐ者」と称した[1][2]

モレアス専制公領の首府ミストラスで哲学者、教育者として活動した[2]。歴史上名を知られるのは、フィレンツェ公会議に参加し、ヨハンネス・ベッサリオンとともに、イタリアにプラトン哲学を伝えた点にある。公会議後も、コジモ・デ・メディチの依頼でしばらくフィレンツェに滞在。その後、ミストラスに帰国した。

当時のギリシア人は、東ローマ帝国の市民としてローマ人と称していたが、プレトンは自らを「ヘレネスである」とし、古代ギリシアの神々の復活やプラトンの『国家』に範を採った政治を主張するなど、異様なまでに古代ギリシャ文明の復興を唱えた。このため、キリスト教会(正教会)とは対立し、焚書処分も受けた。また、のちにコンスタンディヌーポリ総主教ゲンナディオス2世となるスコラリオスはアリストテレス哲学を擁護した上で正教の修道士となっており、ゲンナディオス2世はプレトンによるプラトン哲学に対しても批判を加えた[3]

プレトンは1452年、ミストラスで死去した。東ローマ帝国が滅亡するのは翌年のことである。
生涯

教養のあるキリスト教徒の家に育ち、コンスタンティノープルアドリアノープルで学び、その後コンスタンティノープルに戻り、哲学の教師としての地位を確立した。1365年にオスマン帝国ムラト1世に占領されていた。1410年より少し前に、皇帝マヌエル2世は彼をモレアス専制公のヘレニズム的な都市ミストラスへ派遣し、そこが彼の拠点となった。コンスタンティノープルでは彼は元老院議員であり、裁判官などの様々な公的役割を果たしたが、モレアス公からも定期的に相談を受けていた。教会から異端の疑いを受けながらも彼は帝国の支持を得ていた。

ミストラスでは、哲学、天文学、歴史、地理を教え、多くの古典作家の要約を編集した。彼の生徒には後にローマ・カトリック教会の枢機卿になったバシリオス・ベッサリオン、コンスタンティノープル総主教となりプレトンに反対するゲンナディオス・スコラリオスがいた。彼はテオドロス2世によって行政長官に任命された。

1428年フィレンツェ公会議において、プレトンは正教会カトリック教会の合同に関する問題をイオアンネス8世と協議し、両代表団が同等の投票権を持つべきだと助言した。西ヨーロッパはローマ・カトリック教会とイスラーム世界を通してある程度古代ギリシャの哲学を利用することができたが、東ローマ帝国には西洋人がこれまでに見たことのない多くの文書と解釈が存在していた。これら東ローマの学問は、イオアンネス8世パラエオロゴスが教会合同について協議するためにフィレンツェ公会議に参加した1438年以降、西欧においても完全に利用することが可能となった。世俗的な学者であったのに拘わらずプレトンはイオアンネス8世に随行するように選ばれた。他の代表者にはベッサリオン、エフェソス府主教マルコス・エウゲニコス、スコラリオスなどがいた。

カトリック教会ではフィリオクェを含むニケア・コンスタンティノープル信経は787年の第七回全地公会議において公布されたと考えられえていたが、プレトンは当時にそれが読み上げられた証拠は全くなく、当時の教皇ハドリアヌス1世レオ3世はフィリオクェを含まない信経を唱えていたと指摘し、カトリック教会の主張を反駁した[1]

世俗学者として公会議ではプレトンはしばしば必要とされなかったが、フィレンツェでのヒューマニストの招待で、プラトンとアリストテレスの違いについて講義する一時的な学校が設立された。当時西欧ではほとんどプラトンについて研究されていなったが、プレトンは西欧にプラトンを再導入し、中世西欧におけるアリストテレスの支配的思想を揺るがすことになった。マルシリオ・フィッチーノによれば、彼のプロティノスの翻訳の講義にコジモ・デ・メディチは出席し、フィレンツェにアカデミア・プラトニカを設立することを触発された[2]。その結果、プレトンはイタリア・ルネッサンスに最も重要な影響を与えた一人と見なされるようになった。アカデミア・プラトニカの最初の監督となったフィッチーノはプレトンを最大級に賛辞して「第二のプラトン」と呼んだ。枢機卿となったベッサリオンはプラトンの魂がプレトンの中に宿っているのかについて推考した。テンピエ・マラテスティアーノのプレトンの墓碑、“偉大なる師が自由人達の間にあるために”

フィレンツェにいる間、プレトンは『アリストテレスとプラトンの相違について』というタイトルの書を書いた[2]。彼が遭遇した誤解を修正するために、病気であった間に「プラトンに専念して学んでいる人々を慰め喜ばせるために、特別な意図なしに」書いたものだと主張した。スコラリオスはアリストテレスの立場で応答し、のちに更にプレトンの応答を引き出した。それについて東ローマの学者とイタリアのヒューマニストの間で議論が続いた。

J.モンファサニによれば、プレトンは1452年あるいは1454年にミストラスで死去した。この違いは彼はコンスタンティノープル陥落を知ったかどうか重要である。

1464年にシジズモンド・パンドルフォ・マラテスタがトルコ人に対して遠征し、ミストラスの下町地区を奪回した。そこでプレトンの墓を発見し、その遺体をリミニマラテスティアーノ聖堂の外側壁に埋葬した[1]
著作プレトンの手稿。ギリシア語で書かれている。
『ペロポネソス半島の改革』

ペロポネソス人は古代ギリシャ人の直系であり、ヘレニズムを体現する普遍的ローマ帝国というユスティニアヌスの考えを否定した。

土地の共有を主張し、生産物はすべて三分割し、労働者、農地所有者、国庫に振り分けるべきとした。そして、兵士は税を免除され、各兵士は国家とヘイロータイと呼ばれる納税義務を負う労働者一人によって養われるべきであるとし、これによって軍の水準を維持できると主張した[1]

「ペロポネソスについてデスポテース・テオドロスに宛てたプレトンの建白書」[2]

「ペロポネソス事情について皇帝マヌエルに宛てたプレトンの建白書」[4]

『アリストテレスとプラトンの相違について』


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef