ゲイロード・ペリー
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ゲイロード・ペリー
Gaylord Perry
レンジャーズ在籍時のペリー
(1977年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ノースカロライナ州ウィリアムストン
生年月日 (1938-09-15) 1938年9月15日
没年月日 (2022-12-01) 2022年12月1日(84歳没)
身長
体重6' 4" =約193 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1958年
初出場1962年4月14日
最終出場1983年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


キャンベル大学

サンフランシスコ・ジャイアンツ (1962 - 1971)

クリーブランド・インディアンス (1972 - 1975)

テキサス・レンジャーズ (1975 - 1977)

サンディエゴ・パドレス (1978 - 1979)

テキサス・レンジャーズ (1980)

ニューヨーク・ヤンキース (1980)

アトランタ・ブレーブス (1981)

シアトル・マリナーズ (1982 - 1983)

カンザスシティ・ロイヤルズ (1983)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1991年
得票率77.20%
選出方法BBWAA
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ゲイロード・ジャクソン・ペリー(Gaylord Jackson Perry, 1938年9月15日 - 2022年12月1日[1])は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ウィリアムストン出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

3歳上の実兄ジム・ペリーも、MLB通算215勝を記録している一流の投手である。
経歴ジャイアンツ傘下AAA級 タコマ・ジャイアンツ時代のペリー
(1961年)

1958年6月3日にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約。

1962年4月14日のシンシナティ・レッズ戦でメジャーデビュー[2]

1964年5月31日のニューヨーク・メッツ戦で延長13回から登板し、10イニングを無失点に抑えて勝利投手[3]となり、6月30日の同カードではメジャー初完封を達成[3]。8月から先発に定着し、12勝11敗、防御率2.75を記録した。

1965年は後半戦からリリーフでの登板が多くなり[4]、8勝に留まる。

1966年は開幕から5連勝、1敗の後に7連勝を記録[5]6月26日のレッズ戦では5回までパーフェクトに抑えて2安打完封勝利を挙げる[6]など前半戦で12勝を記録し、オールスターゲームに初選出される。後半戦は7月22日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で7回まで無安打に抑え、キャリアハイの15奪三振で1失点完投勝利を挙げる[7]など8連勝を記録したがその後6連敗[5]。それでも21勝8敗、防御率2.99、201奪三振の好成績だった。1967年は勝利に恵まれず前半戦は5勝10敗だったが、9月1日のレッズ戦で16イニングを無失点に抑える[8]など後半戦は10勝7敗、防御率1.71と復調[9]し、15勝17敗ながら防御率2.61、230奪三振を記録した。

1968年は8月26日のシカゴ・カブス戦で7回一死までパーフェクトに抑え、1安打無四死球の「準完全試合」で完封勝利[10]。9月17日のセントルイス・カージナルス戦ではボブ・ギブソンとの投手戦を制してノーヒットノーランを達成[11][12]するなど16勝15敗、防御率2.45の成績だった。

1969年は19勝14敗、防御率2.49、233奪三振、リーグ最多の325.1イニングを記録した。

1970年は4年ぶりにオールスターゲームに選出され、9月に4連続完封勝利を挙げる[13]などいずれもリーグ最多の23勝、41先発、5完封、328.2イニング、292被安打を記録。ギブソンと並んで最多勝利のタイトルを獲得し、サイ・ヤング賞の投票ではギブソンに次ぐ2位に入った。

1971年は16勝12敗、防御率2.76の成績でチームの地区優勝に貢献。ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦で3失点完投勝利を挙げるが、第4戦で6回途中7失点と打ち込まれて敗戦投手となり[14]、チームは1勝3敗で敗退した。これが結果的に自身最初で最後のポストシーズンとなった。11月29日にサム・マクダウェルとの交換トレードで、1選手と共にクリーブランド・インディアンスに移籍。

1972年は移籍1年目ながら開幕投手を務める。前半戦で16勝8敗、防御率1.73を記録し[15]、2年ぶりにオールスターゲームに選出される。24勝16敗、防御率1.92、234奪三振、リーグトップの29完投を記録してウィルバー・ウッドと並んで最多勝利のタイトルを獲得し、自身初のサイ・ヤング賞を受賞。兄ジムも1970年に受賞しており、兄弟の受賞はMLB史上初となった。MVPの投票では6位に入った[16]

1973年7月3日のデトロイト・タイガース戦では兄と投げ合い、7回途中5失点で敗戦投手となった[17]。19勝19敗、防御率3.38、いずれもキャリアワーストの115四球、143失点、315被安打、34被本塁打、17暴投と前年から成績を落としたが、リーグトップの29完投、いずれもキャリアハイの238奪三振、344.0イニング、7完封を記録した。

1974年は兄とチームメイトになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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