ケーリー・グラント
[Wikipedia|▼Menu]

ケーリー・グラント
Cary Grant
1941年
本名アーチボルド・アレクサンダー・リーチ
(Archibald Alexander Leach)
別名義アーチー・レンチ
生年月日 (1904-01-18) 1904年1月18日
没年月日 (1986-11-29) 1986年11月29日(82歳没)
出生地 イギリス ブリストル
死没地 アメリカ合衆国 アイオワ州ダベンポート
国籍 イギリス
アメリカ合衆国
職業俳優
活動期間1932年 - 1966年
配偶者ヴァージニア・チェリル(1934-1935)
バーバラ・ハットン(1942-1945)
ベッツィ・ドレイク(1949-1962)
ダイアン・キャノン(1965-1967)
バーバラ・ハリス(1981-1986)
著名な家族ジェニファー・グラント(娘)
主な作品
新婚道中記』(1937年)
赤ちゃん教育』(1938年)
ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)
汚名』(1946年)
北北西に進路を取れ』(1959年)
シャレード』(1963年)

 受賞
アカデミー賞
名誉賞
1969年
その他の賞

テンプレートを表示

ケーリー・グラント(Cary Grant, 1904年1月18日 - 1986年11月29日)は、イギリス出身の俳優
経歴

アーチボルド・アレグザンダー・リーチ(Archibald Alexander Leach)としてイギリスのブリストルで生まれ、混乱した不幸な幼年期を過ごす。ケーリーが9歳の時、母親が精神疾患が原因で行方不明となり、父親はケーリーに真実を話さなかった。ケーリーが母親の生存を知ったのは、ケーリーが31歳になってからのことであった[1]。父親はケーリーが10歳の時に息子を捨て、後に別の女性と再婚してしまう[2]。母親の失踪は、以後ケーリーの私生活(特に女性関係)や秘密主義に影響し、それはまた魅力ともなった。そのような特質はケーリーの演技に直接現れ、アルフレッド・ヒッチコック作品などで垣間見ることができる。

ケーリーはその不幸な幼年期の経験から賞賛と注目を渇望するようになり、人々の目を引きつける新しい人格を創り上げた。1918年にブリストルのフェアフィールド・スクールから放校処分を受けた後、ボブ・ペンダー演劇一座に加わる。ケーリーは一座と共に2年間のアメリカ公演旅行を行った。一座はイギリスに戻ったが、ケーリーはアメリカに留まった。ケーリーは俳優として独立し、上流階級のアクセントを混ぜたユニークなアクセントと人物像を作り出した。ブロードウェイのコメディで成功を収めた後、1931年ハリウッドでの仕事を得て[1]、「ケーリー・グラント」の芸名を使い始めた。

1932年には早くもジョセフ・フォン・スタンバーグの『ブロンド・ヴィナス』でマレーネ・ディートリヒらと共演。1935年にはジョージ・キューカーの『男装』でキャサリン・ヘプバーンと共演。以後もジョージ・キューカーハワード・ホークスジョージ・スティーヴンススタンリー・ドーネンなどの監督作品で活躍した。1941年の『愛のアルバム』と1945年の『孤独な心』ではアカデミー主演男優賞にノミネートされたが、受賞はしていない。汚名』でイングリッド・バーグマンと共に

また、アルフレッド・ヒッチコックのお気に入りで[3]、『断崖』『汚名』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』の4本に出演している。

1950年代には自身の制作会社「Granart Productions」を設立し配給も手掛けた。グラントは、スタジオ・システムを抜け出して成功した初めての俳優といえる[1]

俳優のローレンス・オリヴィエとは同じイギリス人の誼で長年、親交があった。ケーリーは「スター」、オリヴィエは「演技派」と評され、俳優としては別々な道を歩んだが、オリヴィエはグラントのことを「映画が始まってすぐに、演出に頼らず、観客に『この人のようになりたい!』と思わせることが出来る唯一の俳優」との賛辞を送っている。

スターでありながら大変な倹約家で、レストランではなく撮影所内の食堂で食事をした。また、撮影でホテル住まいになると、会社が用意した高級ホテルをキャンセルし、格下の普通ランクのホテルに滞在。その宿泊料の差額を正確に要求した。1973年

1965年10月に映画『歩け走るな!』(引退作)の日本ロケで来日し、その後1971年にも来日している。

1970年アカデミー名誉賞を受賞。1986年アイオワ州ダベンポートでの劇場ショーのリハーサル中に倒れ、病院に運ばれたが脳卒中で急逝した。葬儀では火葬され、遺灰はカリフォルニア州の大地に撒かれた。

ハリウッドに所在するソニー・ピクチャーズ エンタテインメント内のダビングスタジオには、グラントの名を冠した「ケーリー・グラント・シアター(ケリー・グラント・シアター)」が所在する。
私生活
ランドルフ・スコットとの関係

1932年ランドルフ・スコットと出会い、12年間に渡る共同生活で友情を深めた。マーク・エリオットなど幾人かの伝記作家や当時の関係者は、彼らの関係が性的なもので、ケーリーはゲイだったと主張した[4][5][6]が、その真偽は明らかになっていない。後にテレビのインタビューでチェヴィー・チェイスがグラントとゲイに関するジョークを発言した際、グラントは発言に対して訴えを起こしている[7]
米国市民権

1942年6月26日にアメリカに帰化し、市民権を得る。
5度の結婚

結婚は5回している。

1934年に女優のヴァージニア・チェリルと結婚するが翌年離婚。

1942年に裕福な社交界の名士で大富豪であったバーバラ・ハットンと結婚した。ケーリーは2度目、バーバラは3度目の結婚であった。ケーリーは彼女の息子ランス・レベンスローの義理の父親となり、その生涯に影響を与えた。バーバラとの結婚により、「コニーアイランドのアイスクリーム売りが億万長者になった!」とゴシップ紙に書かれ、「私が貧しい育ちだからこんなことを書かれるのか」と衝撃を受けた。4年で結婚生活は終わったが、その間、バーバラに支払いを頼ることは一切しなかった。生涯で7回結婚したバーバラに後年、「私の資産を当てにしなかったのは、ケーリー・グラントだけ。そして、私の資産ではなく『私自身』を見てくれた男性も彼だけだった」と言わしめた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef