ケープタウン
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「ケープタウン」のその他の用法については「ケープタウン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ケープタウン市都市圏
City of Cape Town Metropolitan Municipality
Kaapstad



都市圏都市圏

愛称 : The mother city(母なる都市)
位置

ケープタウンの位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ケープタウンケープタウン (南アフリカ共和国)南アフリカ共和国の地図を表示ケープタウンケープタウン (西ケープ州)西ケープ州の地図を表示ケープタウンケープタウン (アフリカ)アフリカの地図を表示

ケープタウンの位置(西ケープ州)
ケープタウン都市圏南半分を示した地図。サイモンズタウンがあるケープ半島北端部にケープタウン市街地は位置する。ケープ半島の東はフォールス湾(英語版)。
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯33度55分 東経18度25分 / 南緯33.917度 東経18.417度 / -33.917; 18.417
歴史
建設1652年
都市圏指定2000年
行政
南アフリカ共和国
 西ケープ州
 都市圏ケープタウン市都市圏
市長ジョーディン・ヒル=ルイス
民主同盟
地理
面積 
  都市圏域2,454.72 km2 (947.8 mi2)
人口
人口(2018年現在)
  都市圏域3,776,000人
    人口密度  9,400人/km2(24,000人/mi2)
  都市圏4,005,015人
    都市圏人口密度  1,600人/km2(4,200人/mi2)
その他
等時帯南アフリカ標準時 (UTC+2)
郵便番号8000
ISO 3166-2ZA-WC
公式ウェブサイト : ⇒City of Cape Town official website
市街風景ケープ岬(衛星画像より作成)

ケープタウン(英語: Cape Town、アフリカーンス語: Kaapstad、コサ語: IKapa)は、南アフリカ共和国西ケープ州に位置する都市都市圏)である。立法府所在地で、同州の州都アフリカ有数の世界都市である。
概要

テーブル湾に面する同市はそのが有名であるとともに、世界的に有名なテーブルマウンテン喜望峰などを含んだケープ草原(en:Cape floral kingdom)のなかにある。

ケープタウンはもともと東アフリカインド東アジア貿易に携わるオランダ船の食料基地として建設されており、それはスエズ運河1869年に建設される200年以上も前のことであった。ヤン・ファン・リーベック1652年4月6日に到着して南アフリカで初めてのヨーロッパ植民地を設立するのであるが、ケープタウンは急速に成長してヨーロッパ初の前哨基地(キャッスル・オブ・グッドホープ)という元々の目的を超えてしまった。ヨハネスブルグダーバンが成長するまでは南アフリカ最大の都市であったのである。また南アフリカに初めて白人が入植した土地であり、のちの内陸部へのすべての開拓の起点ともなった。そのため、南アフリカの白人からは「マザー・シティー」(母なる都市)との愛称で呼ばれる。

2001年の南アフリカの国勢調査によれば、ケープタウン大都市圏は295万人の人口を持ち、[1] 面積は2499平方キロメートルで南アフリカの他の都市よりも大きい。この結果、人口密度は比較的低くなり1平方キロメートルあたり1158人である。ケープタウンはフランスニースイスラエルハイファ姉妹都市となっている。ケープタウン市内人口は2011年国勢調査によると、433,688人となっている。周辺地域と合わせた大都市圏人口は3,740,026人。
歴史
創設

ヴァスコ・ダ・ガマ1498年に喜望峰回りの欧印航路を開発して以降、この地方は欧州東洋とを結ぶ主要航路となっていたが、喜望峰沖は航海上の難所であるにもかかわらず、ポルトガル領のルアンダソファラ間には補給港がなく、交通の障壁となっていた。このため、オランダ東インド会社がこの地域への補給港建設を計画し、同社に所属していたヤン・ファン・リーベック1652年にテーブル湾南岸の、現在のケープタウン中心部に入植し、ケープタウン市を建設した。

ケープタウン周辺では熱帯原産のバントゥー系の主食作物は生育できなかったため、この地方に居住していたのは牧畜民であるコイコイ人だった。彼らは食料生産力が低いため人口が少なく戦闘力も低かったため、入植者たちにすぐに追われ、ケープタウンは安全に成長することができるようになった。この地への入植を決定した東インド会社首脳部は、この地に補給港以上のものをつくろうとは考えておらず、利益を考慮しない代わりに損害も少なくするため、できる限り放任する姿勢をとった。入植者たちの一部は自由農民となり、ケープタウン及びその周辺で農耕や牧畜を開始した。入植者は会社によって1707年までは無料で輸送され、次々とこの地に入植していった。入植者たちにはオランダ人のほか、ナントの勅令の廃止によってフランスを追われたユグノーたちもおり、彼らはケープタウン近郊に入植してワイン作りを始めた。1679年には第10代ケープ植民地総督シモン・ファン・デル・ステルが内陸部のステレンボッシュに居留地を作り、以後ケープ植民地はケープタウン市のみの植民地から面的な広がりを持つようになった。

18世紀には、ケープタウンは補給基地の枠を超えて成長を続けるようになった。ケープタウンの港には欧印航路の商船が立ちよるようになり、彼らを相手とする商人層が成長し、一部のものは富を蓄え富裕層となっていった。農民は独立自営農民として各地に巨大な農園を構え、奴隷を使用しながら大規模農業を営むようになった。この2者と商船を顧客とする職人層も出現した。農民層の一部はケープタウン市から遠くはなれた内陸部で牧畜を営むようになり、トレックボーアと呼ばれるようになったが、彼らの生産品はケープタウンで売られ、必需品もケープタウン商人が供給しており、ケープタウン経済から独立した存在ではなかった。18世紀末にはケープタウンの世帯数は1100戸に達していた。1778年には富を蓄えた都市商人と農民層がオランダ本国に代表団を送って政治的代表権と貿易の自由を要求したが、黙殺された。[2]
英領ケープ植民地

1795年フランス革命の余波を受けイギリス艦隊がケープタウンに上陸し、ケープはイギリスの占領下に置かれた。1803年にはアミアンの和約によってオランダ連邦共和国の後継国家であるバタヴィア共和国がケープ植民地の支配権を取り戻したが、1806年1月には再びイギリス軍がケープを占領し、1815年ウィーン議定書によってケープタウンは正式にイギリス領となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:82 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef