ケーブル・アンド・ワイヤレス
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ケーブル・アンド・ワイヤレス(Cable & Wireless)は、海底ケーブルを主力に世界80カ国で事業展開した電気通信事業者。略称はC&W。旧称は、イースタン・テレグラフ・カンパニー(大東電信会社)。ジョン・ペンダー(John Pender)が創業したイースタン・グループの主力会社。国策事業につき本社はイギリスにあり、主要な事業領域としてイギリス、ヨーロッパ大陸カリブ海パナマ中東マカオである。バークレイズロスチャイルドを経営顧問とした[1]

2010年、ケーブル&ワイヤレス・コミュニケーションズとケーブル&ワイヤレス・ワールドワイドに分社化され、後者は2012年7月いっぱいでボーダフォンに完全買収された。
ペンダー帝国

1852年、マンチェスターの木綿商人であったジョン・ペンダーが、電信会社BIM(British and Irish Magnetic)の重役らと金を出し合って、ロンドン・ダブリン間の電信を経営する会社を立ち上げた。このペンダーがケーブル・アンド・ワイヤレスの原点である。ペンダーは大西洋電信会社(Atlantic Telegraph Company)の重役となった。この会社は大西洋横断電信ケーブルを敷設すると新規事業を自力で開拓することが難しくなり、1864年にペンダーが大手ケーブルメーカー二社の合併を仲介し、テルコン(Telegraph Construction and Maintenance Company)を誕生させたが、翌1865年に破綻してしまった。ペンダーは新規にアングロ・アメリカン電信会社を立ち上げ、テルコンは同社の助けで再建に成功し、失ったケーブル所有権を回復した。1866年には大西洋間ケーブルを敷設した[2]

1868年、イギリスの電信買収法による電信の国有化に伴い、イギリス政府は電信会社の株主らに800万ポンドの補償金を充当した[3]。BIMも例外ではなかったが、しかし海外のケーブルは対象外であった。

1870年大北電信会社と勢力圏を協定した。大北の営業圏は香港以北、大東は上海以南とした。営業圏の重なる香港-上海間は協定によって利益配分された。5月14日付タイムズ紙より。この談合は大北が長崎へ進出する足場となった。この頃、大東のケーブルはテルコンのそれとマルタで接続し、マルセイユへ連絡した[2]

1872年、グループの4社がペンダーを会長としてイースタン・テレグラフ・カンパニー(大東電信会社)へ統合された[4]。この頃、ペンダーの支配下にある海底ケーブルはポースカーノからジブラルタル、マルタ、スエズ運河アデンを経由してボンベイに至る長さであった。1874年にポルトガル・ブラジル間のケーブルを傘下に収め、1878年に買収した[5]

1879年から第二次ボーア戦争にかけて、ペンダーは新会社を設立し[6]、アフリカへケーブルを伸張した[2]

1889年、ペンダーは詐欺師のジャベツ・バルフォアと組んでMetropolitan Electric Supply Co. という電力会社を経営しており、この年に商務省からロンドン中心部の4箇所に電力の独占供給を許された。4箇所とは、リンカーン法曹院コヴェント・ガーデン、メリルボーン、ブルームスベリー。こうした権益は送電網の合理化においてロンドンがベルリンに遅れる原因となった。
太平洋開発

1896年にペンダーが死去。ツィードデール侯爵が大東の会長となり、ペンダーの息子デニソンがマネージング・ディレクターとなった[2]

1899年にブラジル事業を統合[7]、西部電信(Western Telegraph Company)を設立した。

1900年、イギリス・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ四カ国政府が太平洋ケーブルの合資を決意し、テルコンが敷設契約を勝ち取った[2]。これは1902年10月に竣工した。同年12月14日、大東が半分、大北が1/4出資する商業太平洋ケーブル会社(Commercial Pacific Cable Company)がサンフランシスコとハワイを結ぶ初の太平洋横断電信ケーブルを敷設。翌1903年に、ハワイからミッドウェー経由でフィリピンまで延伸。日露戦争が終わってすぐの1905年9月、この会社は日本政府と共同事業に合意し、敷設作業日米間太平洋横断国際海底ケーブルを開通させた。1906年8月1日の開通当日は明治天皇セオドア・ルーズベルト間に祝賀電文の交換が行われた。ポーツマス条約締結後も新たな協約に基づいて共同事業は続けられた。
世界通信戦争

第一次世界大戦の間、海外のケーブルは英国政府に管理された。海軍・郵政庁(General Post Office)と連携し、ドイツ帝国・北米間の海底ケーブルを寸断、一時はドイツ帝国が所有する太平洋とインドシナ海のケーブルも使用不能にした[2]ヤップ島上海間のケーブルを切り取り、沖縄=上海間に、青島市=上海間は上海=佐世保間につなぎなおした。

1919年、リオデジャネイロアセンション島の間に、翌1920年ブラジルのサン・ルイスバルバドスの間に、海底ケーブルを敷設、後者はウエスタンユニオンフロリダ経由でネットワークを構築できるようにした[8]。ほどなくフロリダには投信を使った不動産投機熱が起こった。1925年、テルコンが技術革新(automatic regeneration)を成し、グリエルモ・マルコーニの無線と競争した。

1929年4月8日、大東電信会社がマルコーニ社および英国通信事業と合併してIIC(Imperial and International Communications)となった。世界恐慌の波紋が広がるなか、テレックスが発明され、アメリカのITT(International Telephone and Telegraph)との競争も激しくなった。1934年、IICからケーブル・アンド・ワイヤレスへ改称した[2]

1938年第二次世界大戦突入時に、切断すべきドイツ・イタリアの海底ケーブルリストを作成した。イギリスは戦中ドイツ帝国のときのように、まずドーバー海峡のドイツからスペイン、ポルトガル、アゾレス諸島にのびるケーブルを切断した。イタリアの宣戦布告を受けて、地中海と大西洋のイタリアケーブルを切断した。英国政府とは自社株を譲るほどの間柄で、代わりに郵政庁が開発した短波無線の特許を得た[2]。翌1939年ミュンヘン会談で検討されていた「監視計画」を開始。1920年の公職機密法に規定されていた権限を全世界に適用した。検閲、ケーブル監視、無線傍受により、エニグマ (暗号機) を除く世界の通信を監視下においた。

1940年2-4月、英仏間で切断したケーブルの扱いについて協議した。社長のエドワード・ウィルショウがイギリス政府に建議、ドイツ・イタリア・フランスの大西洋ケーブルを切断し、新たに英国=ジブラルタル=アゾレス=アメリカを連結するケーブルの敷設を主張した。連合国であるはずのフランスだが、ケーブル・アンド・ワイヤレスはフランス領西アフリカとラゴス間のケーブルを切断した。
国営化と民営化

1945年6月、BBCのレイス卿(John Reith, 1st Baron Reith)を議長として自治領の代表者が集まりCTO(Commonwealth Telecommunications Conference)が催され、ケーブル・アンド・ワイヤレスを国有化する計画の大枠が決定した。ケーブル・アンド・ワイヤレスはそのまま5年後に相当部分を国有化された。しかし郵政庁に吸収された部分は大方の国内施設だけである。1万5千マイル以上のケーブル網とコーンウォールのポースカーノはケーブル・アンド・ワイヤレスの手に残された。


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