アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク
(ケーニヒスベルク大学)Albertus-Universitat Konigsberg
ラテン語: Universitas Albertina
種別国公立大学
開学期間1544年?1945年
学長
アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク(ドイツ語: Albertus-Universitat Konigsberg)は、ドイツ・東プロイセンのケーニヒスベルクにあった大学。プロイセン公アルブレヒトによって1544年に第2校目のプロテスタントアカデミー (マールブルク大学に次ぐ) として創立された。通称、ケーニヒスベルク大学。
第二次世界大戦後、ケーニヒスベルク市は1945年8月のポツダム協定によってソビエト連邦に編入され、カリーニングラードと改名した。
ケーニヒスベルク大学は1945年に閉校し、残っていたドイツ人は追放された。現在、カリーニングラードにあるイマニュエル・カント記念バルト連邦大学は、アルベルトゥスの伝統を受け継ぐとされる。 元ドイツ騎士団総長で、1525年以降、初代プロイセン公のアルブレヒトは、ザームラント司教区参事会よりプレーゲル川のクナイプホーフ島にあるケーニヒスベルク大聖堂の後ろの土地を購入し、そこで1542年にギムナジウムを建設した。1544年7月20日、コレギウム・アルベルティーヌムの設立権利証書を発行し、大学は8月17日に開校式を行った。コレギウム・アルベルティーヌム, 1850年頃 新しく建国されたプロテスタントの公国はポーランド王国王冠領の領地であり、大学はカトリック系クラクフアカデミーに対する形でルター派が運営した。最初の学長はフィリップ・メランヒトンの義理息子の詩人ゲオルク・サビヌス
学史
1618年からプロイセン公国はブランデンブルク辺境伯による同君連合に統治され、そしてまた1657年に「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムは、最終的にヴェーラウ条約によってポーランドからプロイセンの主権を完全に獲得した。アルベルトゥスは、ブランデンブルク=プロイセン、プロテスタントの知的中心地であった。当初は神学、医学、哲学、法学の4つのコレージュで構成され、のちに、自然科学系も創設した。それ以後の学長には、数多くのホーエンツォレルン家のプロイセン王族が務めていたが(最後は皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセン、1908?1918)、しかし大学に出向くことはなく、通常は学術団体事務担当の副学長が代表した。クナイプホーフにあるコレギウムアルベルの裏側、ここでカントが教えていた。この地区は第二次世界大戦で破壊された。
プロイセン領域は悲惨な三十年戦争においてほぼ無傷で残ったため学生の間でケーニヒスベルク大学は人気を博した。17世紀、1656年/57年に学長を務めた、詩人ジーモン・ダッハの拠点としても知られている。ロシア皇帝ピョートル1世は1697年にアルベルトゥスを訪問したため、プロイセンとロシア帝国間の接触を増やすことにつながった。ケーニヒスベルクで注目すべきロシアの学生には、のちにロシア科学アカデミーの総裁になったキリル・ラズモフスキー、そして将軍ミハイル・アンドレーエヴィチ・ミロラドヴィチである。大学と市はリトアニアの文化発展に多大な影響を与えた。リトアニア語の最初の図書は1547年にここで印刷され、複数の重要なリトアニアの作家がアルベルトゥスに通った。また、大学はバルト・ドイツ貴族のお気に入りの教育機関でもあった。
18世紀は啓蒙思想における「ケーニヒスベルクの世紀」として文化史に名をとどめている、アルベルトゥスの学生だったヨハン・クリストフ・ゴットシェートのころに全盛期が始まり、哲学者ヨハン・ゲオルク・ハーマンや作家テオドール・ゴットリーブ・フォン・ヒッペル・エルダーらがそれに続いた。