ケーシー・ステンゲル
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ケーシー・ステンゲル
Casey Stengel
ヤンキース監督当時のステンゲル(1953年)
基本情報
出身地ミズーリ州カンザスシティ
生年月日1890年7月30日
没年月日 (1975-09-29) 1975年9月29日(85歳没)
身長
体重5' 11" =約180.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手監督
プロ入り1911年
初出場1912年9月17日
最終出場1925年5月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴:

ブルックリン・ドジャース (1912 - 1917)

ピッツバーグ・パイレーツ (1918 - 1919)

フィラデルフィア・フィリーズ (1920 - 1921)

ニューヨーク・ジャイアンツ (1921 - 1923)

ボストン・ブレーブス (1924 - 1925)

監督歴:

ブルックリン・ドジャース (1934 - 1936)

ボストン・ブレーブス (1938 - 1943)

ニューヨーク・ヤンキース (1949 - 1960)

ニューヨーク・メッツ (1962 - 1965)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1966年
選出方法ベテランズ委員会選出(監督)
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

チャールズ・ディロン・ステンゲル(Charles Dillon "Casey" Stengel , 1890年7月30日 - 1975年9月29日)は、アメリカメジャーリーグニューヨーク・ヤンキースニューヨーク・メッツの元監督[1]

ニックネームともなっている"Casey(ケーシー)"とは、彼の生まれ故郷ミズーリ州カンザスシティ (K.C.)から来ている[2]。またドイツ系アメリカ人であったことから若い頃は"Dutch(オランダ人)"とも呼ばれ、監督時代はその鋭い機知と皮肉なコメントから"The Old Professor"(老教授)とも呼ばれた。
生い立ち

ステンゲルは料理人の父Jennie Jordanと保険のセールスマンをしていた母Louisの間に生まれた。学生時代は投手をしており、野球の他にフットボール・バスケットボールの選手でもあった。
選手時代

ステンゲルは1908年にマイナーリーグと投手として契約。5年のマイナー暮らしの後、1912年にはメジャーリーグにデビューし、それから26年までの間、ブルックリン・ドジャースをはじめとするナショナル・リーグのいくつかのチームで外野手として活躍した(左投げ左打ち)。有能な選手ではあったが、スタープレイヤーではなかった。一方で歯科医を志し、夏は野球の選手をしつつ、シーズンオフには歯科大学に通っていた。
監督時代

ステンゲルは引退後、ブルックリン・ドジャース(1934-1936)、ボストン・ブレーブス(1938-1943)の監督を歴任したが、そのときの成績は芳しくなかった。1944年にマイナーリーグベースボールのミルウォーキー・ブルワーズ(英語版)[3]、1945年にカンザスシティ・ブルースでそれぞれ監督を務めた後、1946年にオークランド・オークスの監督に就任、1948年にはパシフィックコーストリーグで優勝を果たした。当時新監督を捜していたニューヨーク・ヤンキースがその評判を聞きつけ、1949年にステンゲルを監督に招聘した。

当時ニューヨークのマスコミにはステンゲルの採用を疑問視する向きもあったが、ステンゲルはヤンキースの監督就任初年度の1949年から53年まで、空前のワールドシリーズ5連覇を成し遂げた。この時に確立したプラトーン・システム(相手投手の左右に合わせて、右打ちと左打ちの複数のオーダーを用意すること)などの戦術が功を奏したこと、またヨギ・ベラミッキー・マントルなどの強力なスラッガーやホワイティー・フォードという強投手を効果的に使ったことで、この偉業を達成できたとも言える。ステンゲルは就任当初「このチームは私が指揮したどのチームよりも問題が少ない」と述べている[4]

ステンゲルはヤンキースの監督として秀れた戦術を駆使し、スポーツ界だけでなく「タイム誌」のような一般誌にも掲載されるようになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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