ケンドー・カシン
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ケンドー・カシン

プロフィール
リングネームケンドー・カシン
ケンドー・カ・シン
石澤 常光
本名石澤 常光
ニックネーム悪魔仮面
身長181cm
体重87kg
誕生日 (1968-08-05) 1968年8月5日(55歳)
出身地青森県南津軽郡常盤村
所属フリー
スポーツ歴レスリング
トレーナー馳浩
佐々木健介
デビュー1992年9月21日
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獲得メダル
男子 レスリング
全日本学生レスリング選手権大会
金1988フリー82kg級
金1989フリー82kg級
金1990フリー82kg級
全日本大学レスリング選手権大会
金1988フリー84kg級
金1989フリー84kg級
全日本レスリング選手権大会
銀1989フリー82kg級
銀1990フリー82kg級
金1991フリー82kg級

ケンドー・カシン(1968年8月5日 - )は、日本覆面レスラー。本名は石澤 常光(いしざわ ときみつ)。
来歴
デビュー前

青森県南津軽郡常盤村(2005年3月の市町村合併により現在は藤崎町)出身。実家は青森県内有数の養鶏場「トキワ養鶏」を営んでいる。父は合併時まで同村の村長を務めた石澤善成で、4人兄弟の三男。レスリングの強豪校である光星学院高校(現:八戸学院光星高等学校)に入学。1986年、第41回国民体育大会ではレスリング少年の部フリースタイル70kg級で優勝。1987年、早稲田大学人間科学部入学。

早大入学後、レスリングで早くから活躍し、1987年秋季新人戦で優勝、大学2年で全日本学生選手権3連覇含む学生タイトル2冠[1][2]全日本選手権においては1989年から2年連続フリースタイル82kg級で準優勝。

1991年、早大卒業後、新日本プロレスのレスリング部門、闘魂クラブに入団、全日本選手権優勝[3]を果たす。根っからのプロレスファンで、学生時代にはしばしば練習を休んでプロレス観戦に興じていたという。
新日本プロレス時代

1992年4月に正式に新日本プロレスに正式入門。9月21日、石沢常光("ざわ"は新字体)の名で、金本浩二戦でデビュー。コーチを務めた馳浩からは「全く運動神経のない男」と表現される反面、同期の中では受身の習得も早く[要出典]、「筋肉の反射神経は、プロレスラーに限らず、色んなスポーツ選手を見てきた中で抜群」と評価している。

1996年3月、第7回ヤングライオン杯にて優勝。このさい、優勝賞金としてセレモニーで手渡された小切手型のボードを半分に折り、決勝で敗った永田裕志に片方を渡して健闘を称えるという、後のカシンの姿からは想像もできない振る舞いを見せている。
覆面レスラーへの転身

1996年7月、ヨーロッパ遠征へ出発。そのさい、現地のプロモーターだったオットー・ワンツの要請を受け、マスクマン「ケンドー・カ・シン」となる(後に"カシン"に改名)。後に同年12月に遠征先のドイツ・ブレーメンで受けた週刊プロレスのインタビューで「マスクマンになったのはオットー・ワンツの要請だよ。ケンドー・カ・シンというリングネームも全部ワンツが考えた。カ・シンの意味は分からない」と述べている。金澤克彦のインタビューの中では、出発前にオットーに「マスクを持ってこい」と要求された際、当時の新日本の社長に「じゃあエル・サムライのマスクを持っていけ」と言われた事を語っている。またその際「やだなぁ」と思ったという。

1997年4月、凱旋帰国しケンドー・カ・シンとして帰国第一戦、山崎一夫とシングルマッチで対戦。UWFの流れを汲む山崎相手にグラウンドの攻防やマウント掌底など、格闘技色の強いプロレスを展開するが、当時の新日本ファンからは受け入れられず、失笑を買ってしまう結果となる。同年、10月16日の新日本四日市興行の試合後、「オレは別にいつ辞めたっていいしね。全然プロレス界に必要な人間じゃないし。潰すか潰されるか、それだけだ」とインタビューで発言。

1998年6月、アメリカで受けた週刊プロレスのインタビューで凱旋帰国第一戦時のことを「はじめ日本に帰ってきた時、みんなが素顔でやるものと思ってた。でも、オレ自身のなかで、せっかくヨーロッパでマスクを被ってやって来て、現地でもウケてたし自信もあった」と発言。その上で、「そう思って帰国して最初の試合でみんなに笑われた。その笑われた時点でマスクをずっと被ろうと決心した」と、覆面レスラーを続けるに至った経緯を述べている。
ブレイク、飛躍の年

1999年1月、東京ドーム大会で大谷晋二郎高岩竜一組を破り、第2代IWGPジュニアタッグ王座戴冠(w/ドクトル・ワグナー・ジュニア)。自身初のタイトル奪取となった。

同年2月、マサ・サイトー引退記念写真展でのミニトークショーで 「オレは最初から・なんか入ってないサインをしてた。あれは勝手にマスコミが・を入れたの」とカ・シンからカシンに改名した理由を述べた。さらに過去の経歴からライバル関係にあり、不仲であると囁かれていた中西学との関係に触れ、「いや、ライバルじゃない。親友。ほんと、ほんと」と発言。しかし、「中西が新日本に入るって言った時は本気で(新日本を)辞めようかなと思ったんですけどね」とも述べ、「プロレス入ってからは、挨拶ぐらいはしたことある。後はもう、以心伝心で伝わるから」と、どうとも取れる旨の意味深な発言を続け、以後、事あるごとに中西を引き合いに出す片鱗を見せる。

同年3月、金本浩二の「オレは剛竜馬小林邦昭にはならない」という発言を受けて「オレは剛竜馬や中西学にはならない」と発言。金本は自分はジュニアの脇役にはならないという旨の発言であったが、カシンの価値観から暗に自分はバカにならないという旨のパロディー発言であった。同月のIWGPジュニアタッグ王座防衛戦で選手権試合認定状を破り捨てる前代未聞のパフォーマンスを行うもグラン浜田&エル・サムライ組を破り、王座防衛。試合後、認定状を破った件を実況レポーターの真鍋由アナウンサーに問われ、「オレの勝手だろ。お前にとやかく言われる筋合いはない」と発言。さらにグラン浜田に対しては「パートナーに娘(浜田文子)連れてきた方がよかったんじゃないか?」と発言。

同年4月、東京ドーム大会で獣神サンダーライガーザ・グレート・サスケ組に敗れて2度の防衛を果たしたIWGPジュニアタッグ王座から転落。

同年5月、BEST OF THE SUPER Jr.に出場。田中稔戦で中西の得意技であるアルゼンチン・バックブリーカーを披露し試合後、「今日はバカな……いや、バカの技使ちゃったよ」と発言し、敗因はそれで腰を痛めたからと述べる。さらに「優勝したら、(当時紛争状態にあった)コソボの人達に給付金をやる」と宣言。折原昌夫戦では試合後、「今日の勝利は、二瓶組長に捧げるよ」と発言し、個人間のトラブルを引き合いに出してコメント(トラブルの詳細は折原昌夫の項を参照)。決勝まで勝ち進み、当時第33代IWGPジュニア王者であった金本を破り、BEST OF THE SUPER Jr.に優勝。賞金として500万円を獲得したが、小切手ボードを実況レポーターの真鍋アナに投げつけ、「お前これ、換金して寄付しとけ、ネコババするなよ!」と発言。「どこにですか!?」と叫ぶ真鍋アナに「コソボだ、コソボ!」と答えた。後日、前述の誓約通り実際に賞金をコソボに寄付(ただし、全部ではなく一部の100万円)。

同年8月、またも金本を破り、第34代IWGPジュニア王座戴冠。しかし同王座の公式のベルトが存在するにもかかわらず、その後の試合では自作の"ケンドー・カシンベルト"を巻いて入場し、本物のIWGPベルトはリング上で足蹴にするなど、その権威をことさらに冒涜して見せる(本来、チャンピオンベルトは権威そのものでなく、象徴にすぎないので、この時点の王者が巻いている自作ベルトが正統なチャンピオンベルトとなる。)。ほかにも、勝利後に授与されるトロフィーをその場で破壊するなど、奇行とも取れるパフォーマンスを本格的に始める。

同年9月、初防衛を果たしたライガー戦で、記者の「おめでとうございます」の言葉に「うん、余計なお世話だ」と発言。

同年10月、94年に開催されたジュニアタッグリーグで石沢としてタッグを組んで以来、師匠と呼ぶようになったディーン・マレンコから初勝利を上げ、「さすが師匠だ」と発言。同月、東京ドーム大会でライガーに敗れ、IWGPジュニア王座から転落。マレンコとタッグを組んでライガー&サムライ組から勝利を上げた試合後、「タッグのベルトも獲れるけど、(マレンコの)スケジュールが合わない。とりあえず、ニシオ(中西学)と組むよりはいいかな」と発言。
総合格闘技への進出

2000年6月、PRIDEへの出場が噂される最中、試合後この件について真鍋アナに問われたところ、「PRIDE? お前が出ろ、このバカ!」と一蹴。否定も肯定もせずさらに「てめーが出ろ」と蹴るような仕草まで見せた。同月にはベスト・オブ・ザ・スーパージュニア7が開幕。同大会に出場し、「今年も(コソボに)寄付するよ。それから地雷撤去! 地雷撤去!」と意気込んだ。

同年7月、自身の地元において主催興行を行う。終了後、記者に「なにかある?」と問いかけておきながら、「バカヤロー、今はそれどころじゃねぇんだ。オレは興行の精算をしなくちゃいけねえし、その金でお中元を出さなくちゃいけねえんだ」とのコメントを残してさっさと控え室へ引っ込んでしまう。


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