ケルン大聖堂
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ケルン大聖堂
Kolner Dom
東側から見たケルン大聖堂

所在地ケルン
ドイツ
教派ローマ・カトリック
ウェブサイトkoelner-dom.de
歴史
守護聖人聖ペトロ
建築物
現況大聖堂
用途現存
様式ゴシック建築
建設年1248?1560
1842?1880
1950年代?現在 (再建)
建築物概要
全長144.5m[1]
全幅86.25m[1]
尖塔数2
尖塔の高さ157m[1]
鐘11
聖職者
首席司祭Guido Assmann[2]
副首席司祭Robert Kleine
司教代理Jorg Stockem
関係平信徒
音楽監督Eberhard Metternich
オルガニスト ⇒Prof. Dr. Winfried Bonig
オルガン・スカラーUlrich Bruggemann
建築物詳細

高さ記録
世界一高い建築物 (1880から1884まで)[I]
先代ルーアン大聖堂
次代ワシントン記念塔
高さ
最頂部157.4m
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ケルン大聖堂
ドイツ

ケルン大聖堂
英名Cologne Cathedral
仏名Cathedrale de Cologne
登録区分文化遺産
登録基準(1),(2),(4)
登録年1996年
備考2004年から2006年まで危機遺産
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

使用方法表示
正面外観内観平面図

ケルン大聖堂(ケルンだいせいどう、: Kolner Dom)は、ドイツケルンにあるゴシック様式大聖堂。正式名称はザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂(Dom St. Peter und Maria。聖ペトロとマリア大聖堂の意)。ゴシック様式の建築物としては世界最大であり、ローマ・カトリック教会ミサが行われている。大聖堂の維持管理はおもにケルン大聖堂中央建築協会が担っている。
歴史

現存の大聖堂[3]は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことであった。正方形の建物で、もっとも古い聖堂として知られていた。 

2代目は818年に完成し、12世紀後半に東方三博士聖遺物が置かれたことで多くの巡礼者を集めて[4]、ケルンの発展に貢献したが、1248年4月30日に火災で焼失した。その年の8月15日礎石が据えられて3代目の建設が始まったが、16世紀に入って宗教改革を発端とした財政難のため工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた[5]。建設が再開されるのは19世紀に入ってからだった。

ナポレオン戦争の影響によりドイツでナショナリズムが高揚する中、中世ドイツに自民族の伝統を探し求める動きが強まった。建築ではゴシック・リヴァイヴァルの潮流が強まり、建設途中であったケルン大聖堂に注目が集まったため、1842年に建設が再開され、もうひとつの塔の完成が急がれた。すべてが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことである[6]。同年8月14日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世臨席の下、国家行事として完成祝賀式典が催された[7]。高さ157メートルの大聖堂はアメリカワシントン記念塔(高さ169メートル)が完成する1884年まで建築物としては世界一の高さを誇った。「皇帝の鐘」と称されるが南塔にとりつけられたが、第一次世界大戦の際に接収され、溶かして武器の生産にあてられてしまった。

大聖堂は第二次世界大戦時のケルン市に対する英米軍の空襲で14発の直撃弾を受けた。内部は激しく破壊されたものの全体は崩れなかったため、1956年まで復旧工事が行われ、元の状態に復元された。この際に周囲の廃墟から再利用した粗悪なレンガで復旧された部分が残っていたが、1990年代に入り空襲前の外観に戻す作業が始まっている。また、修復の一環として破損したステンドグラスの一部がゲルハルト・リヒターによる近代的なモザイク風の市松模様のものに置き換えられたが、これについてはいまだに賛否両論がある。

1996年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されたものの、周辺の高層建築物計画による景観破壊の危機にさらされた。2004年には危機遺産に指定されたが、大聖堂の周囲に高さ規制を敷くなど市当局の懸命な努力により2006年をもって解除された。

2005年8月18日にはローマ教皇ベネディクト16世が自ら大聖堂を訪問している。

2015年12月31日には大聖堂前広場でアラブ人北アフリカ人によってケルン大晦日集団性暴行事件が引き起こされた[8]

なお、漫画家水木しげるは「コローンの悪魔」と題する妖怪譚において、ケルン大聖堂の設計図を描いた建築家は、その際に悪魔の助けをかりた。代わりに悪魔に自分の魂を譲り渡す約束であったが、十字架を悪魔の「鼻さきにつきつけ」、悪魔を退散させる。怒った悪魔が呪いをかけたために、彼の名前は知られることがなかったとしている[9]
建築様式

1248年、カロリング朝のケルン大聖堂が大火で焼失したあと、すぐに新大聖堂の定礎が行われた。建築構想は、それまでアミアンパリボーヴェなどの大聖堂を見て回り、ゴシックの技術と造形を学んできたゲルハルト・フォン・ライル(Gerhard von Rile)という工匠が行った。彼が集めた各地のゴシック建築の記録は、当時、同時代のフランス人建築家ヴィラール・ド・オンヌクールの画帖に匹敵するものといわれてきたが、現存していない。

石工出身のゲルハルトはその深い知識と観察に基づき、アミアン大聖堂から半円形平面に放射状祭室の設けられた内陣を、ブールジュやトロワの大聖堂から五廊式の平面構成を、そしてサン・ドニの会堂からトリフォリウムの形状を取り入れるなど、新しい大聖堂にフランス・ゴシックの成果を応用した。このように、主要な構造技術はほとんどフランスのゴシック建築に学んだものである。アミアン大聖堂を模範として機械的なまでに徹底された正確なレヨナン芸術(建築材料のもつ物質性を取り去り、より上品で優雅な超越的な空間の様式を持つ芸術)を追求した。

ところが大聖堂の工事は遅々として進まず、内陣が完成するのは14世紀に入り、1322年のことであった。ほかの大聖堂と異なり、この工事においては当初の計画がほぼ継続されており、それゆえゲルハルトの建築観がそのまま実現されることになる。しかし、西側ファサードの塔が完成するのは、前の建築物が焼失してから600年程も経過した19世紀、ゴシック・リバイバルの時代になってからであった[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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