ケルフィリー城
[Wikipedia|▼Menu]

ケアフィリー城(Caerphilly Castle)
Part of
ケアフィリ (カウンティ・バラ)
ウェールズケアフィリー
ケアフィリー城と堀
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度34分34秒 西経3度13分13秒 / 北緯51.5761度 西経3.2203度 / 51.5761; -3.2203座標: 北緯51度34分34秒 西経3度13分13秒 / 北緯51.5761度 西経3.2203度 / 51.5761; -3.2203
種類中世の集中式城郭
面積約 30エーカー (12 ha)
施設情報
所有者ウェールズ政府の歴史遺産保護部門 Cadw
一般公開一般公開中
現況観光地、部分的に修復された廃墟
歴史
建設1268年?1290年
建設者ギルバート・ド・クレア
建築資材ペナント砂岩
主な出来事Welsh Wars
1326年 イングランドの侵攻
イングランド内戦

指定建築物 ? 等級 I

ケルフィリー城(ケルフィリーじょう、Caerphilly Castle)は、イギリスウェールズ南部、ケルフィリーの中心にある城郭。城郭の規模はウェールズ最大で、イギリス全体ではウィンザー城についで2位である。二重の塀に囲まれ、大規模な水濠に囲まれた盤石の守備を誇る要塞として知られる[1]。ウェールズ政府の歴史遺産管理機関 Cadw が観光地として管理している。
構造【図解】 A ? 西ゲートハウス; B ? 南湖; C ? グレートホール; D ? 内部区画; E ? 中部区画; F ? 北の土手; G ? 北湖; H ? 東ゲートハウス; I ? 南ゲートハウス; J ? 南ダムプラットフォーム; K ? 水車; L ? フェルトンの塔; M ? 外東堀; N ? 外側メイン ゲートハウス; O ? 北ダム プラットフォーム; P ? 北ゲートハウス

ケルフィリー城がある天然の土手の先端は、ダムを作るために湖が開削されており、堅固な湖の防壁として機能している。ダムは城の両面の守備を固め、またケルフィリーの街への城門としての役割も持っている。

城の主要な建物がある中央の島の敷地は、城門から城内の庭、塔に至るまで堅い壁で包囲されている。

さらに西の島へ向かって石で舗装された掘割が開削されているが、護岸工事は未完成のままである。他、城の北の方面にも堀が開削されている。

北に土手と堀を築くために、ダム工事の最終段階で湖は拡張され、新たな湖が形成された。西へ通じる堀は、ダムの中心にある詰所の完成によって西への通路が提供された。

城の最も広い部分は1268年から4年かけて築造された。以降、城の北にあるダムを除き、ほんの僅かな修正が加えられた。城を囲む堀の面積は30約エーカー(120,000u)であり、その規模はヨーロッパ最大級である。
概要上空写真

13世紀に建造されたウェールズの城の多くはエドワード1世の厳重な管理の下で築城されたが、ケルフィリー城はそれらの城とは異なり、当時ケルフィリー一帯の領主であったノルマン人のギルバート・ド・クレアによって建造された。築城の目的は、グラモーガン地方征服作戦の一環で、ライバルであるルウェリン・アプ・グリフィズ公の南方への侵攻を防ぐためであった。

グロスター伯とグリフィズ公の紛争はしばしば起こり、1270年に城は焼かれ、1271年にイングランド王ヘンリー3世の介入を受ける事となった。そして彼が派遣した司祭によって一時期城は管理されていたが、グロスター伯はすぐに所有権を奪回し、没するまで城を支配した。1294年のMadog ap Llywelyn反乱、1316年のLlywelyn Bren蜂起、1326-1327年イングランド侵攻で攻撃を受けた。

グロスター伯ギルバートの死後はエドワード2世の寵臣ヒュー・デスペンサーが保有したが、後にヒューは失脚しケルフィリー城にも軍勢が差し向けられることとなる。この際、ヒューの部下達は篭城戦を展開し、数ヶ月間攻撃を耐え凌いだ。

15世紀以降は牢獄として使用され、その後ペンブルック伯Henry Herbertが居城とした[2]。 1583年、城はトーマス・ルイスが借りたが、彼によって拡張などが行われ原型を失った[2]

1776年に初代ビュート侯爵ジョン・ステュアートが城を取得した[3]。彼は、荒廃を防止する措置を取った。そして炭鉱で潤っていた曾孫 第3代ビュート侯ジョン・クライトン=ステュアートは、中世に深い関心を持っており、建築家 William Frame に全体の調査を指示し、1870年代に大ホールの改装を行った。また侯爵は、敷地の端まで立てられた建物を除去するために、その建物の買い戻しも行った[4]

第4代ビュート侯ジョン・クライトン=ステュアートは、熱心な修復家で、1928年から1939年の間に大規模な修復プロジェクトを発足させた[5]。1950年代から60年代に、塔や建物の再建、池の復活、周辺の市街地の整理などが行われた[6]
現在

21世紀に、ウェールズの歴史遺産保護部門 Cadw の所有するところとなった[6]。また、en:Scheduled monument、第一級指定建築物に指定され保護されている[7]

現在では観光地となっており、二つの橋の間には商店がある他、多彩なアトラクションが催されている。2006年の観光客は、9万人に達した[8]。城のホールでは結婚式を開催することも許可されており、ホールには100人以上を収容できる。城の北と南に広がる湖では釣りをすることもできる。ドクター・フー魔術師 MERLINなど、さまざまなテレビ番組で登場する[9]
逸話

清教徒革命の際、敵の砲撃によって爆破された塔が十度の角度に3メートルも傾いた。傾いた塔は現存しており、観光スポットとなっている。またケルフィリー城には、夜な夜な騎士の亡霊が出没すると言う奇談がある。
関連項目

en:Castell Coch
- ビュート侯爵家に修復された建物

脚注.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ケルフィリー城に関連するメディアがあります。^ Caerphilly Castle at BBC Wales History
^ a b Newman, John (2001). The Buildings of Wales: Glamorgan. London, UK: Penguin. ISBN 978-0-14-071056-4. p. 169
^ Renn, Derek (2002). Caerphilly Castle. Cardiff, UK: Cadw. ISBN 978-1-85760-082-7. p22
^ Davies, John (1981). Cardiff and the Marquesses of Bute. Cardiff, UK: University of Wales Press. ISBN 978-0-7083-2463-9. p75
^ Renn 2002, p. 22; Davies 1981, p. 30
^ a b Renn 2002, p. 23
^ “ ⇒Caerphilly Castle”. Gatehouse. 2012年12月8日閲覧。
^ “ ⇒Background Paper: Tourism, 2008”. Caerphilly County Borough. 2012年1月21日閲覧。
^ ケルフィリー城(英国政府観光庁)

参考文献

株式会社レッカ社編纂、
桐生操監修「ヨーロッパの「古城・宮殿」がよくわかる本」(PHP文庫 ISBN 978-4-569-67468-1)168ページ









次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef