ケルト人
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「ケルティック」はこの項目へ転送されています。音楽のジャンルについては「ケルト音楽」をご覧ください。

「セルティック」はこの項目へ転送されています。スコットランドのサッカークラブチームについては「セルティックFC」をご覧ください。
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年6月)
ケルト人の分布
● - 紀元前1500年から紀元前1000年
● - 紀元前400年

ケルト人(ケルトじん、英語: Celt, Kelt [?k?lt], Celt では [?s?lt] とも)は、以前は黒海沿岸部から車輪付きの乗り物(戦車馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。ケルトとは古代ローマで「未知の人」を意味し、もともとは民族を示す言葉ではない。

現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代から中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人 (Celts) 」という言葉は使わず、「ケルト系 (Celtic) 」という言葉を便宜的に使っている。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

東は現在のポーランドから西は現在のアイルランド島までとヨーロッパの広範囲に居住していた民族だが、現在はブリテン諸島アイルランドスコットランドウェールズコーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュブルトン人などに言語が現存している。
大陸

ケルト人はおそらく青銅器時代中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャエトルリアからの圧倒的な影響下で、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。ちなみに、イギリスの世界遺産であるストーンヘンジはより古い新石器時代?青銅器時代(紀元前3千年?2千年) の建造と以前は考えられていた。

ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立した。彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されている。紀元前400年頃にはマケドニア金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになった。また、ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを征服。ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付近を中心に小アジア各地を席巻した。

やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになる。ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランススペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服される。カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献である。やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人(フランス語ではゴール人)は、被支配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していく。
ブリテン諸島

ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。

西暦1世紀にイングランドウェールズはローマの支配を受け、この地方はローマ化するが、5世紀ゲルマン人ガリアに侵入すると、ローマ帝国ブリタンニアの支配を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き上げた。この間隙を突いてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングランドに侵入し、アングロサクソンの支配の下でローマ文明は忘れ去られた。

しかし、同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残存した。スコットランドアイルランドはもともとローマの支配すら受けなかった地域であると言われていたが、実は、ローマと直接交流していた形跡が見つかっている。

ギリシャ人とローマ人は、島のケルト人を「背が高く金髪あるいは赤みのかかった髪で肌が白い」と表現していた。しかし、現代の大陸のケルト人はどちらかというと背が低く浅黒い肌の人が多い。これは大陸のケルトと島のケルトが同じ文化と言語を共有しているものの生物学的には同一ではないことを示している[1]
宗教

当初の宗教自然崇拝多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれを司っていた。初期のドルイドは、祭祀のみでなく、政治や司法などにも関わっていた。ドルイドの予言の儀式では人身供犠が行われていることを、多くの古典古代の著述家たちが記述している[2]。ドルイドの教義では現世と来世は連続的であるとされ、ケルト人は輪廻転生と霊魂の不滅を信じていた[3]。ポンポニウス・メラやユリウス・カエサルは、ケルト人の戦いにおける勇敢さや人命への軽視とケルト人の死生観を結びつけて考えた。

また、アイルランドには人頭崇拝の風習があった。人の頭部は魂の住処となる神性を帯びた部位であり、独自に存在し得るものと考えた[4]。敵の首級を所有することでその人物の人格や魂を支配できると信じ、戦争で得られた首級は門などの晴れがましい場所に飾られたり、神殿への供物や家宝として扱われた。ケルト芸術には人頭のモチーフが多くみられ、アイルランドではキリスト教改宗後も教会や聖所の装飾に多くの人頭があしらわれている。

ブリテン島では、4世紀にはキリスト教が根づいた。その後、ヴァイキングの侵入やノルマン・コンクエストの影響で、ケルト人キリスト教はしだいに一時衰退した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef