ケベック・シティー
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ケベック・シティー
Ville de Quebec
Quebec City

セントローレンス川とケベック市街


市旗市章

愛称 : La Vieille Capitale
位置

ケベック・シティーの位置(ケベック州)
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯46度49分0秒 西経71度13分0秒 / 北緯46.81667度 西経71.21667度 / 46.81667; -71.21667
歴史
定住開始1608年
行政
カナダ
  ケベック州
 行政区ケベック首都地域
 市ケベック・シティー
市長ブルーノ・マルシャン(フランス語版)
地理
面積 
  市域485.77 km2
    陸上  453.38 km2
  市街地427.66 km2
  都市圏3,408.70 km2
標高73 m (240 ft)
人口
人口2016年[1]現在)
  市域531,902人
    人口密度  1,173.2人/km2(3,039人/mi2)
  市街地705,103人
    市街地人口密度  1,648人/km2(4,270人/mi2)
  都市圏800,296人
    都市圏人口密度  234.8人/km2(608人/mi2)
  備考カナダ国内11位
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
市外局番+1-418/581
公式ウェブサイト : ⇒ville.quebec.qc.ca

ケベック・シティー(フランス語: Ville de Quebec、英語: Quebec City、発音:/k??b?k/)は、カナダケベック州にある都市。同州の州都であり、州内ではモントリオールに次いで人口が多い。2016年の調査によると人口は531,902人(国内11位)で、大都市圏内では800,296人(国内7位)である。

セントローレンス川が、ダイアモンド岬と、対岸のレヴィとに接近した地点で狭まっていることから、先住民アルゴンキン族の言葉で「川が狭くなっているところ」を意味する「ケベック」という名前になった。市内の旧市街はメキシコ以北では現存する唯一の城郭都市となっており、1985年にユネスコ世界遺産に「ケベック旧市街の歴史地区」として登録された[2][3]。1608年に設立されており、北米内で最も古い歴史を持つ都市の一つでもある[4]。アメリカ文化の影響が強い北米フランス語圏にあたり、公用語がフランス語、かつ人々の生活様式や文化の面でフランス文化が強いという独自性を放つ。

ケベック州との区別から一般に「ケベック・シティー」、または「ヴィル・ド・ケベック」と呼ばれる。フランス語ではケベック州は「le Quebec」、ケベック・シティーを単に「Quebec」と呼び、区別している[5]
歴史
近世サミュエル・ド・シャンプラン

1534年から3度にわたり、フランス国王フランソワ1世に派遣されたジャック・カルティエが、スタダコナ(現在のケベック・シティー)に入植を試みたが、当初はうまく行かなかった。一方で、ヨーロッパ漁業関係者がカナダで副業として毛皮の取引を行っていたことから、フランスは、毛皮取引の占有権を持ち、カナダに植民地を建てた。1600年、ピエール・ド・ショヴァンがタドゥサックに毛皮の交易所を建て、後に占有権を得たピエール・デュグアが、開拓移民団を連れてカナダへ向かった。この一行に地理学者サミュエル・ド・シャンプランがいた。彼らの開拓した植民地は、ヌーベル・フランスと呼ばれることになる。アビタシオン

彼らはまずアカディアに入り、その後、現ノバスコシア州西部のポートロイヤル(ポール・ロワイヤル、現アナポリス・ロイヤル)にも入植したが、不発に終わった。1608年、一行はケベックにアビタシオンと呼ばれる木造建築物を作り、そこを交易所とした。、「ヌーベル・フランスの父」とも呼ばれたシャンプランは、植民地をめぐる様々な問題に取り組み、奥地への探検を奨励した。その一人が、白人として初めてペンシルベニア州を横断し、スペリオル湖を発見したエチエンヌ・ブルレである。シャンプラン自身も1609年にシャンプラン湖を発見した。一方で、キリスト教布教が行われ、17世紀半ばには、人口の4分の1は、イエズス会神父や、ウルスラ[要曖昧さ回避]会の尼僧といった聖職者だった。毛皮貿易は、一部の非合法者(クーリュエ・ド・ボワ)の問題を抱えながらも大いに栄え、後に女性も入植して来て、家庭を営む人々が増えた。水路などのインフラストラクチャー整備も行われ、農作物の生産も増大した。「北米植民地戦争」も参照

フランスがケベックの開拓と発展にいそしんでいたほぼ同じ時期、イギリスも北米で植民地建設に力を入れていた。オランダを追い出した後、ハドソン川経由で毛皮貿易を行っており、ヌーベル・フランスにとって脅威であった。特にアカディアやニューファンドランドをめぐっての対立が激しくなり、やがてヨーロッパでの二国間の抗争が、植民地に飛び火するようになって、1754年ジョージ・ワシントンがヌーベル・フランスを攻撃し、その後ヨーロッパの七年戦争が波及する形で、北米での英仏の衝突が起こった。特にイギリスでウィリアム・ピットが政権を握った頃から、戦況はイギリスに有利に進み、1758年イギリス海軍はフランスを海上封鎖して、ルイブール要塞に壊滅的な打撃を与えた後、1759年にはアブラハム平原の戦いで勝利を収め、ついにヌーベル・フランスは、イギリスの統治下に置かれることとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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