ケニー・ロバーツ
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この項目では、1978年-1980年WGP500ccチャンピオンについて説明しています。2000年WGP500ccチャンピオンについては「ケニー・ロバーツ・ジュニア」をご覧ください。

ケニー・ロバーツ
ケニー・ロバーツ (1981年、ホッケンハイム)
グランプリでの経歴
国籍 アメリカ合衆国
活動期間1974年1978年 - 1983年
チームヤマハ
レース数68
チャンピオン500cc - 1978年1979年1980年
優勝回数24
表彰台回数44
ポールポジション回数22
ファステストラップ回数27
初グランプリ1974年(250cc)
ダッチTT
初勝利1978年(250cc)
ベネズエラGP
最終勝利1983年(500cc)
サンマリノGP
最終グランプリ1983年(500cc)
サンマリノGP
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ケニー・ロバーツ (Kenny Roberts) ことケネス・ルロイ・ロバーツ(Kenneth Leroy Roberts、1951年12月31日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元モーターサイクル・レーシングライダー。AMAグランドナショナル選手権、ロードレース世界選手権(WGP)500ccクラスなどで輝かしい成績を収め、「キング・ケニー」というニックネームが生まれた。

長男のケニー・ロバーツ・ジュニアもWGP500ccクラスを制覇し、WGP、モトGPを通じ、2017年現在、唯一の親子二代チャンピオン。ジュニアとの明確な区別のため、ケニー・ロバーツ・シニアと呼ばれることもある。次男のカーティス・ロバーツもWGPに参戦した。

1992年には国際モータースポーツ殿堂、2000年にはMotoGP殿堂入り。
経歴
ライダーとして

1973年、母国アメリカのAMAグランドナショナル選手権において史上最年少(21歳)でチャンピオンを獲得。翌1974年も2年連続でタイトル獲得。

1974年にはWGPダッチTT(オランダGP)の250ccクラスで初出場する。転倒したが、再スタートし、3位となる。当時の新聞はケニーのことを「ビッグマウス」と書いた。かなりWGPを下に見た発言をしたらしい[1]

1978年にヤマハワークスライダーとしてWGPにフル参戦する[2]。初年度から3年連続で500ccチャンピオンという偉業を成し遂げ、WGPにおいて初のアメリカ出身のチャンピオンにもなった。

1983年フレディ・スペンサーと歴史にのこる激戦を繰り広げ、僅差でWGP王座を逃した。この年を最後にWGPからは引退。ただし1985年、1986年の鈴鹿8時間耐久ロードレースなど、その後もいくつかのレースには出場した。
監督として

ヤマハの顔的存在として、引退後はヤマハワークスの「チームロバーツ」を率いてWGPに参戦。門下生ウェイン・レイニー(500ccクラス、1990年 - 1992年)、ジョン・コシンスキー(250ccクラス、1990年)がチャンピオンを獲得するなど、運営者・指導者としても有能であることを証明した。

その後、オリジナルマシンの開発・参戦を目指しヤマハから独立(チーム結成初期にも、250ccクラスにエンジンはヤマハ市販用、フレームなどは自社の独特の形状をした実験的なオリジナルマシンを走らせていたこともある)。マレーシアの2輪メーカーモデナスの資金協力を得て、3気筒エンジンを搭載するマシン'KR'(自身のイニシャル)でWGPに挑戦した。しかし十分な結果は得られず、2006年からは自社製フレームにホンダRC211V用エンジンの供給を受ける。長男ケニー・ロバーツ・ジュニアはスズキから再び父のチームに復帰した。
後世への影響力

ロバーツの行動や業績の中には、今日のグランプリの基礎となっている事例が多いと言われる。

現在レーシングライダーの間で主流になっている「ハングオフスタイル」をヤーノ・サーリネンと並び、大成・流行させたライダーとして知られる。

WGP転戦に巨大なモーターホームを使用。レースウィークの間は常にサーキットで起居するという生活スタイルをWGPに持ち込んだ[3]

メーカーとの契約関係、開発への発言力、オリジナルのチームスタッフ構成などで、当時としては独創性・先進性に富んでいた[4]

スティーブ・ベイカーと共にアメリカのレーススタイルをヨーロッパのレースに持ち込んだ先駆者であり、その成功により以後ランディ・マモラフレディ・スペンサーエディ・ローソンらがヨーロッパに進出してくることとなり、WGPにおけるアメリカンライダー時代の始まりとなった[5]

1985年鈴鹿8時間耐久レースにヤマハ・ワークスから「現役復帰」して平忠彦と組み出場した際は、WGPの偉大なチャンピオンライダーと国内スターライダーのコンビ結成が大きな話題となり、予選日から観客動員数が飛躍的に増加した。これ以降WGPのトップライダーが鈴鹿8耐にワークス参戦してくるきっかけにもなった。
エピソード

1983年限りでのWGP引退はケニーの本意ではなく、長年の夫婦関係の悪化による離婚調停の結果もたらされたものだったと言われる(ロバーツ夫妻双方に別パートナーが存在)。子供達の親権を得るためにやむを得ずの現役引退であったため、ケニー・ロバーツ本人は競技者生活への未練が大きかったとも言われている。1985年に再婚。結果イベントレースへの参加を増やしていくこととなった。

1983年当時のケニーのメカニックはノビー・クラークである。ノビーはケニーよりもWGPの経験が長く、ノビーの契約金は年間2千万円と言われていた[6]

2018年11月3日、ヤマハ袋井テストコースで実施された「歴史車両デモ走行見学会2018」にゲストとして来場。67歳にして動態保存されていた1978年式YZR750などの全開走行を行った[7]

選手時代の主な戦歴

1969年
オレゴン州 100ccダートトラック 1位

AMA

1970年 ナショナルノービス選手権 1位

1971年 ナショナルジュニア選手権 1位

1972年 ナショナルエキスパート選手権 4位(ヤマハ)

1973年 グランドナショナル選手権チャンピオン(ヤマハ)

1974年 グランドナショナル選手権チャンピオン(ヤマハ)

1975年 グランドナショナル選手権 2位(ヤマハ)

1976年 グランドナショナル選手権 3位(ヤマハ)

1977年 グランドナショナル選手権 4位(ヤマハ)

1978年 デイトナ200マイルレース 1位(ヤマハ)

1983年 デイトナ200マイルレース 1位(ヤマハ)

1984年 デイトナ200マイルレース 1位(ヤマハ)

ロードレース世界選手権


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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