ケシク
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カアンの側近く仕えるケシク(『集史』)

ケシク(モンゴル語: Хишиг ke?ik、中国語: 怯薛)とはモンゴル帝国において君主(カアン)・皇族を昼夜護衛した親衛隊。ke?ikの意味については諸説あり、「カアンからの恩寵」を意味するという説が一般的であるが、近年では“ke?ik”は「輪番[制]」を意味する単語であるとする説が唱えられている。史料上では-tei(?を有する者)を附して「ケシクテイ(Хишигтэн ke?iktei 怯薛歹)」とも呼称される。

ケシクはカアンの親衛隊・軍の精鋭という軍事的側面の他、カアンの身の回りの世話を行う家政機関としての側面、将来の国政を担う幹部の養成機関としての側面も有しており、多様な目的を持つモンゴル帝国の重要機関であった。そのため、ケシク制度は千人隊制度(ミンガン)と並ぶモンゴル帝国の根幹となる制度と評されている。
語義

ケシクの語義については、「恩寵」の意とする説と、「輪番」の意とする説の大きく分けて2通りの説が存在する。ケシク制度について初めて体系的な研究を行った箭内亘が「恩寵」説を主張したため、一般的には「恩寵」説が受け容れられているが、近年では宇野伸浩によって「恩寵」説の見直しが迫られている。
「恩寵」説

先述したように、日本に於けるモンゴル史研究の草分け的存在である箭内亘によって唱えられ、以後通説として定着したもの。箭内は現代モンゴル語において「ケシク」が「恩恵・寵愛・親切」等を意味することに注目し、モンゴル帝国の親衛隊が「天子(カアン)より特別なる恩恵(ケシク)を与えられた」故にこの名称で知られるようになったとする。この解釈の場合、「ケシク」そのものが親衛隊組織の名称とされ、「ケシクテイ(=恩寵を与えられたる者)」はケシクに所属する者の呼称となる。
「輪番」説

「ケシク」を「輪番」の意と解釈する説。現代モンゴル語において「ケシク」が「恩恵・寵愛」などのみならず「輪番・番直」の意も有することは既に箭内亘が指摘しているが、箭内はこの語義を寧ろモンゴル帝国時代の親衛隊制度から派生したものであると解釈し、以後箭内の見解が踏襲されてきた。

しかし近年、宇野伸浩は同時代のウイグル語文書において「ケシク」という語が「輪番」という意味で用いられていること、またマフムード・カーシュガリーテュルク語辞典『テュルク語集成(ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク)』でも「ケシク」が「輪番」という意味の単語として記されていることを紹介し、ケシクの「輪番」という意味がモンゴル帝国以後に成立したとする箭内の説は成り立たないことを指摘した。その上で、モンゴル帝国時代以前よりテュルク系諸族の間で「輪番(=ケシク)制」が存在したと考えられること、それを導入することでモンゴル帝国におけるケシク制度が成立したと考えられる、と述べている。

この解釈の場合、「ケシク」という単語はそのまま「輪番/番直」、あるいは輪番の「班」を意味し、これ自体では「親衛隊組織」そのものを指さない。故に、宇野伸浩は「モンゴル帝国時代の親衛隊組織」を指す際には「当直を持つ人々/輪番を行う人々」を意味する「ケシクテン(ke?igten)」という語を用いるべきである、と述べている。[1]
沿革
起源

遊牧国家における親衛隊制度(ケシク)の歴史は古く、遅くとも鮮卑-北魏の時代にまで遡る。北魏の歴史を記した『魏書』には以下のような記述がある。建国の二年に、初めて左右近侍の職を設置した。常時の定員は決まっていないが、百名にのぼることもあり、禁中に侍り宿直し、宣や詔命を伝えた。いずれも諸部族の大物、豪族・良家の子弟で、立ち居振る舞いと外見が端正で厳然たる者、機転が利き弁舌爽やか、才気煥発な者を選抜・採用した。また内侍の長を四人配置し、顧問として、不足の点・過失を補わしめ、応答させた。若今之侍中、散騎常侍(建国二年、初置左右近侍之職、無常員、或至百数、侍直禁中、伝宣詔命。皆取諸部大人及豪族良家子弟儀貌端厳、機辯才幹者応選。又置内侍長四人、主顧問、拾遺応対、若今之侍中、散騎常侍也。) ? 『魏書』巻113「官氏志」[2]

ここで記される「諸部族の大物、豪族・良家の子弟」から才覚ある者を選ぶという点、四人の長官を置くという点はモンゴル帝国時代のケシクと全く同じ機構である。

北魏では孝文帝の漢化政策によって鮮卑族固有のモンゴルーテュルク系言語由来の名称は姿を消し、正史(『魏書』)にも記録が残されていないが、かえって敵国であった南朝の史書に鮮卑語由来の職名が記録されている。『南斉書』に鮮卑語で記される北魏の官職の中には、モンゴル帝国時代のケシクと共通するものを見出すことができる。

職名(南斉書)モンゴル語転写職掌(南斉書)職務内容
比徳真bitik?in曹局文書吏文書を掌る役人
乞万真keleme?in通事人通事を掌る
可薄真qabaγ?in守門人門の守護を掌る
咸真?am?in諸州乗駅人駅站を掌る
契害真kitua?in殺人者戦闘を掌る

[3]ここにはビチクチやケレメチといったモンゴル帝国時代のケシク官と同じ名称・職掌を有するものがあり、ケシクの原型が既に鮮卑-北魏に存在していたことが確認される[4]
チンギス・カン即位以前のケシク

テムジン(後のチンギス・カン)が登場した頃のモンゴル高原では幾つか有力部族が覇権を競って互いに争う時代であったが、既に幾つかの部族の長が質子(トルカク)から成る親衛隊を有していたことが記録されている。一方、この頃のモンゴル部では有力氏族間の抗争が続いており、テムジンの父でキヤト氏族長のイェスゲイ・バートルが死ぬとキヤト氏の民は一時離散してしまった。

弱小勢力であった頃のテムジンに積極的に味方する者は少なかったものの、しかし自らの自由意思でテムジンの人柄を慕って帰順してくる者、質子(トルカク)として親に連れられて帰参する者たちもいた。アルラト部のボオルチュに代表されるこれらの人物は、反復常ならないキヤトの氏族長たちと異なりテムジン個人に強い忠誠心を発揮し、「ノコル(Nokor,僚友)」と呼称された。

後にテムジンはモンゴル部キヤト氏に推戴されてカンとなった(第一次即位)が、その頃のテムジンの勢力とは「十三翼(13Kurien)」と呼称されるいくつかの氏族集団の連合体であった。この内「第二翼」がチンギス・カンに直属する軍団で、ノコルやチンギス・カンの子弟から構成される「ケシク」そのものであった。1189年時点でのケシクは以下の通りである。
1189年時点でのケシク(チンギス・カン最初のケシク)

職掌転写人名1(部族)人名2(部族)人名3(部族)人名4(部族)
アカ(長)aqa
ボオルチュ(アルラト)ジェルメ(ウリヤンハン)
コルチ(箭筒士)qor?iオゲレ・チェルビ(アルラト)カチウン(ジャライル)ジェデイ(マングト)ドゴルク・チェルビ(マングト)
バウルチ(厨官)ba'ur?iオングル(バヤウト)スイケトゥ・チェルビ(コンゴタン)カダアン・ダルドルカン(タルクト)
コニチ(牧羊官)qoni?iデゲイ(ベスト)
ユルドチ(木匠)mo?i/yurd?iクチュグル(ベスト)
ウルドゥチ(帯刀者)uldu?iクビライ(バルラス)チルグテイ(スルドス)カラカイ・トクラウン(ジャライル)ジョチ・カサル(チンギス・カンの弟)
アクタチ(厩官)aqta?iベルグテイ(チンギス・カンの弟)カラルダイ・トクラウン(ジャライル)
アドゥーチ(牧馬官)adu'u?iタイチウダイ(スルドス)クトゥ・モリチムルカルク(ジャジラト)
イルチ(使者)el?iアルカイ・カサル(ジャライル)タガイ(スルドス)スゲゲイ(スゲゲン)チャウルカン(ウリヤンハン)

[5]チンギス・カンは自らの勢力を拡大させる過程で絶対的な忠誠心を有さないキヤト氏の諸クリエンを信頼せず、あくまで自らに忠実なケシク(=第二翼)を拡大させる方針を取った。チンギス・カンのモンゴル・ウルスが拡大するにつれて曽てのケシクたちは一軍を率いる軍団長となっていき、1203年テムジンは未だモンゴルに服属しない最後の有力部族であるナイマン部を討伐するに当たって、始めて千人隊制度とケシク制度の原型を制定した。この時チンギス・カンは千人・百人・十人隊長の子弟から特に優秀な者を550人選抜し、「宿衛(kebte'ul)」を80人、「侍衛(turqa'ud)」を70人、「箭筒士(qor?i)」を400人設置し、これが後々まで続くケシクの原型となった[6]
チンギス・カンのケシクテイ創設

ナイマン部を征服しモンゴル高原を統一したチンギス・カンは1206年モンゴル帝国を建国し、国家体制の整備に取りかかった。チンギス・カンは先に制定したケシクの規模を大幅に拡大し、1千のコルチ(箭筒士)、1千のトルカウト(侍衛)、8千のトルカウト(侍衛)からなる「1万のケシク」制度が定められた。チンギス・カンは同時に「ケシク隊員は千人隊長(ミンガン)のノヤンより上位にあり、両者が争えばミンガンの方を罰する」と語ってケシクの特権的な地位を明らかにし、ケシクを「Yeke qol(大中軍)」と呼称して自らの直属軍の中核に位置づけた。また、1206年以前からケシクを務めていた者達はこの新設ケシクの中でも特に重用され、「老宿営」「大侍衛」などと呼称された。1万を定員とするケシク制度はこれ以後大きな改変を蒙ることなく、大元ウルス末期まで存続する。

ただし、宿営/侍衛/箭筒士という分類は『元朝秘史』にのみ見られるもので、『元史』や『集史』には記載がない(ただ、類似する名称・概念は存在する)ため、この分類の正確性を疑問視する説もある。例えば、「1千の宿営」は隊長(イェケ・ネウリン=ヌレ・ノヤン)が一致することなどから『集史』における「チンギス・カン直属の千人隊(haz?ra-yi kh???-i Ch?nkk?z Kh?n)」に相当する説があるが、『集史』には「チンギス・カンの千人隊」とケシクもしくはコルチ・トルカウトとの関係については全く記載がない。また、『元史』では『元朝秘史』で「宿営の職務」として記される内容が「ケシク全体の業務」として記されており、ケシクと宿営/侍衛/箭筒士との関係は不明な点が多い[7][8]
大元ウルスにおけるケシク

1271年に即位したクビライは国号を大元大モンゴル国(大元ウルス)と改め、中国由来の官僚制を導入した。しかし、後述するように大元ウルスの官署のトップはケシク長が兼ねるのが通例であり、高官のほとんどはケシク出身者で占められていた。


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