ケイ・ウンスク
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桂銀淑
生誕 (1961-07-28)
1961年7月28日(62歳)
出身地 韓国忠清南道瑞山市
学歴韓国・千戸商業高校
ジャンルトロット演歌歌謡曲
職業歌手
活動期間1979年(韓国)-、1985年(日本) -
レーベルソラボル・レコード(1979年 - 1982年)
東芝EMI(1985年 - 1996年、2005年 - 2006年)
トーラスレコード(1996年 - 1998年)
ポリドール・レコード(1998年 - 2001年)
Naturally music(2019年 - )
事務所第一プロダクション
タイガーエンタープライズ
桂オフィス
Promice Enterprise(2019年 - )

桂銀淑
各種表記
ハングル:???
漢字:桂銀淑
発音:ケ・ウンスク
2000年式
英語表記:Gye Eun-Suk
Kye Eun-Sook
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桂 銀淑(ケイ・ウンスク、???、1961年7月28日 - )は、韓国忠清南道瑞山市出身の女性トロット歌手、演歌歌手である。独特なハスキーボイスで数々のヒット曲を飛ばし、多くの音楽賞を受賞。韓国・天戸商業高校卒業。
来歴
韓国でデビュー

1977年、高校生の時に韓国でモデルとしてデビュー。「ラッキーシャンプー」(現・LG生活健康)のCMキャラクターに抜擢されるなどして、2年間モデルとして活躍。1979年に韓国の徐羅伐(ソラボル)レコード(??????)より「歌って踊って(???? ???)」で歌手デビュー。アイドル歌手として人気を得て、翌年発売した「待っている女心(???? ??)」でMBC10大歌手歌謡祭新人賞を受賞。他にも「私には貴男だけ(??? ????)」「やさしい目つきで(??? ????)」などのヒットを飛ばした。
日本でヒット曲を連発

作曲家の浜圭介に見出され1984年に来日。浜の元でレッスンに励んだ後、1985年に「大阪暮色」で日本デビュー。以来「すずめの涙」「夢おんな」「酔いどれて」「真夜中のシャワー」「悲しみの訪問者」「花のように鳥のように」「ベサメムーチョ」など次々とヒット曲を連発し、数々の音楽賞を受賞。1988年、「夢おんな」で第21回日本有線大賞グランプリを獲得。同年、『NHK紅白歌合戦』に初出場し(歌唱曲は「すずめの涙」)、以降1994年まで7年連続出場。また、日本レコード大賞の常連にもなり、1990年にはアルバム『真夜中のシャワー』で第32回日本レコード大賞アルバム大賞を受賞。デビュー前、当時の所属事務所(第一プロダクション)の社長に「演歌でいくなら、シングルよりもアルバムが売れる息の長いアーティストにして下さいと、お願いしました」と後に本人が語っているように[1]、演歌歌手としては珍しくアルバムが好セールスとなり、「演歌は(シングルが売れても)アルバムが売れない」というジンクスを打ち破った。1987年に発売された、浜圭介とのデュエット曲「北空港」は、数あるデュエット曲の中でも人気が高く、現在でも多くのカラオケファンに愛され、常にカラオケランキングでは上位に入っている。1992年には堀内孝雄とのデュエット曲「都会の天使たち」を発表し大ヒット、その年の紅白歌合戦では白組の堀内と紅組の桂が1つの曲をデュエットする、というそれまでにない異例の形での歌唱となった。またこの年、実業家の金榮秀(キム・ヨンス)と結婚(1998年に離婚)。

1993年3月27日及び28日、韓国ソウル市内のホテル、ハイアットリージェンシーソウルにて社団法人・韓国演芸協会主催による「桂銀淑慈善ディナーショー」を行い、日本デビュー9年目にして初めて母国で日本語歌唱での公演となった。また翌年にはソウルのロッテホテルにてデビュー10周年記念ディナーショーを開催。日本語の歌が禁じられていた時代背景の中で、日韓の文化交流に意欲的に取り組んだ。
独立・レコード会社移籍

1996年、桂自身が納得のいくコンサート活動をするためとアジア進出を目論み[2][3]、デビュー以来所属していた第一プロダクションを退社し独立[1](後にタイガーエンタープライズに移籍)。レコード会社も東芝EMIからトーラスレコードに移籍し、同年9月にシングル「愛ひとつ 夢ひとつ」を発売すると同時に、同レコード会社所属だったテレサ・テン(ケ麗君)に倣い、アーティスト名表記を“ケイ・ウンスク(桂銀淑)”に改め(翌年7月発売の「『Yes』と答えて」で、従来の“桂銀淑”に戻す)、バラード・シンガーとして再出発。 10月にオリジナル・アルバム『愛ひとつ 夢ひとつ』を発売。ヴォーカリスト・桂銀淑の声を引き立たせたバラード・アルバムとして国吉良一プロデュースの元に制作され、小椋佳来生たかお伊勢正三松本隆などニューミュージック系のアーティストが楽曲を提供。翌11月には同タイトルを掲げてコンサートツアーを敢行(11月11日及び12日に行われた東京厚生年金会館での公演は1997年1月にNHK-BS2で放送され、CD及びビデオソフトも発売された)。

1993年の「アモーレ ?はげしく愛して?」を最後に浜圭介作品を歌っていなかったが、1998年に発表の「人魚伝説」よりゴールデン・コンビが復活、再び浜作品を歌うようになる。浜は「私にしてみれば、もう二度と彼女の作品との交流は縁遠いことと、自分自身そう決めつけていたことなので、内心驚いている次第です」と、その喜びを桂銀淑ファンクラブ会報に掲載した。同年発売された「プリーズ…」が昼ドラマ(『家族曲線』)の主題歌に起用され好セールスを記録。オリコンのランキングが好位置をキープした他にも、有線やリクエストでも人気を集めた(有線リクエストベスト演歌2位、総合9位)。
借金トラブルによる裁判

2001年より突如、テレビ・ラジオから姿を消し、コンサート活動に専念する。発売された新曲「あなたのそばに」もメディアでのプロモーションは行われなかった。コンサートで桂は「テレビに疲れた。今迄たくさん戦ってきた。これからはこうしてライブで直接皆さんと触れ合っていきたい」と発言。しかし、新曲CDのリリースは途絶え、翌年からのコンサート本数も激減した。その背景には所属プロダクション(タイガーエンタープライズ)との借金トラブルにより契約を解除され、2億5,500万円の返済を求める裁判を起こされていた事情があった[1]。週刊誌等にはギャンブル癖が原因による借金と書かれていたが桂自身は後にそれを完全否定、借金の理由は、1996年に第一プロダクションから独立した後、アジア進出の失敗と、採算度外視のコンサート制作費(舞台装置、照明、衣装、バックバンド)がかさみ赤字が続いたことで負債を負い[1][2][3]、一時は元夫の事業の失敗による借金や1億円のマンションのローンを含め4億円にも達していた[4]。裁判中は表立った活動が制限されていたためテレビなどでの露出はゼロであったにも関わらず、コンサートやディナーショーを開催すると確実な動員を誇り、大ホールを満員にする程の人気の根強さを見せ付けた。

元夫との離婚、借金による裁判、そして更年期障害うつ病にも苦しんだが[5]、ようやく2006年に和解が成立。債務に関しては、所有していたマンションの権利譲渡を含む、桂オフィスの負債を含めた全ての権利を譲ることと、桂自身に毎月50万円支払うという約束の下、在日韓国人の事業家が一括して引き受けた[6]。同年2月、東芝EMI時代のヒット曲を歌い直したアルバム『桂銀淑2006 NEW BEST』(未発表曲3曲を含む全14曲収録)を発表。8月12日にNHK『思い出のメロディー』に出演し堀内孝雄と「都会の天使たち」をデュエット、久々のテレビ番組での歌唱となった。


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