ケイト・ブッシュ
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ケイト・ブッシュ
Kate Bush
CBE
1985年当時のフォト
基本情報
出生名Catherine Bush
生誕 (1958-07-30) 1958年7月30日(65歳)
出身地 イングランド ケント州ベクスリーヒース(現: 大ロンドンベクスリー区
ジャンルロック
アート・ロック
アート・ポップ
プログレッシブ・ロック
オルタナティヴ・ロック
バロック・ポップ
職業シンガーソングライター
担当楽器ボーカルピアノ
活動期間1975年 - 現在
レーベルEMI
コロムビア・レコード
共同作業者デヴィッド・ギルモア
ピーター・ガブリエル
公式サイト ⇒katebush.com
ビリー・ホリデイ
ジョニ・ミッチェル

ケイト・ブッシュ(Kate Bush、CBE1958年7月30日 - )は、イングランド出身の女性シンガーソングライター

同国を代表するアーティストの一人で、「嵐が丘」などの代表曲で知られる。長年の功績を称えられ、2013年大英帝国勲章を叙勲した。

Q誌が選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第19位[1]。2023年ロックの殿堂入り。
人物

本名:キャサリン・ブッシュは、1958年7月30日に英・ケント州ベクスリーヒース(現: 大ロンドンベクスリー区)の比較的裕福な家庭に生まれた。父親ロバートは医師で、母親ハンナはアイルランド系の元看護師ピアノが堪能な父、アイリッシュフォークの元ダンサーである母、詩人でありカメラマンでもある長兄ジョン、楽器メーカーに勤めていた次兄パディという音楽一家の中で育つ。兄たちは地元のフォークミュージックシーンに関与していた。なおパディは後にケイトのアルバムにも参加している。1970年代頃のデイヴ・ギルモア

ピンク・フロイド」のギタリスト デヴィッド・ギルモアに見出されレコード・デビュー[2]。それ以前に自分で売り込んだ際には、レコード会社から見向きもされなかった。[要出典]

デビュー当時は19歳ということもありアイドル的な見方もされたが、高い歌唱力をベースに高音から低音まで様々な声質を使い分け、トータルで独自の世界を展開するアーティストとして確固たる評価を得た。英国音楽メディアのNMEやMOJOが「ロック史上、誰よりも大きな影響を与えてきた女性アーティスト」と評するなど、現在に至るまでイギリスを代表する女性アーティストとして活動を続けている。[要出典]

ステージで歌唱する際はダンスパントマイムなどの体技を交え、一種のパフォーマンスを展開することが多い(シャイな性格のためと言われる)。早い時期から凝った内容のプロモーション・ビデオも制作しており、音楽とビジュアルの融合にも意欲を見せていた。一方で、完成度の高い作品を志向しているためか、比較的寡作なミュージシャンである。[要出典]

レコード・ジャケットに東洋風の絵柄を用いるなど、東洋の文化への興味が強いと言われる。1978年東京音楽祭に出演するため日本を訪れたが、それ以降は来日の経験はない。諸説あるが飛行機による長旅を嫌っていることが一因らしい。[要出典]

日本ではかつて放送されていた日本テレビのバラエティ番組『恋のから騒ぎ』のオープニング・テーマ曲に彼女の楽曲「嵐が丘」が長年使われていたことから、その歌声は広く知られている[3]
来歴
デビュー前

ケイトが音楽に興味を持ち始めたのは1968年頃のこと。5歳の時一家でオーストラリアへ移住したが、1年程で英国へ戻って来た頃から父ロバートにピアノを習い始める。やがてカトリック系女子校のグラマー・スクールへ通う頃には多くの楽曲やを書き始め、同時にヴァイオリン聖歌隊のレッスンにも励み、自らの芸術的な感性を磨いていった。

1974年、本格的に音楽の道へ進むことを決意したケイトは学校を中退し、ビリー・ホリデイジョニ・ミッチェルなど自分のアイドルへ憧れながら音楽作りに専念。1975年に兄パディ達と共に「KT Bush Band」というバンドを結成し、パブへも出演するようになった。この時期に制作したデモテープが、やがてデヴィッド・ギルモアピンク・フロイド)に見出される。

1976年ロンドン郊外のフラットへ移り住んだケイトは、アダム・デューリアスによるマイムを教えるクラスへ入る。後にリンゼイ・ケンプへも弟子入し、約1年に渡りデビューの準備期間を過ごす。1977年に満を持してアーティストとして初の本格的なレコーディングを始める。また、この時期にマイムのスクールでザイン・グリフデヴィッド・ボウイらと交流し、その後グリフのアルバムへ参加している。
デビューから1990年代まで活動初期(1978年)

1977年11月、エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』のTVドラマを見て作ったシングル「嵐が丘」 (Wuthering Heights)”でデビュー。いきなり全英4週連続一位を記録、同曲を収録したデビュー・アルバム『天使と小悪魔』 (The Kick Inside)も40万枚というセールスとなり、一躍大きな注目を集めた。翌1978年に2ndアルバム『ライオンハート』 (Lionheart)を発表するも1枚目と同じく満足のいく仕上がりにはならなかったことから、自らも裏方の仕事であるプロデュースをしなければと決心する。1981年当時

その後は西ヨーロッパでツアーを行い(映像ソフトがその後1981年に発売)、1980年の3rdアルバム『魔物語』 (Never For Ever)では共同プロデュース、1982年に『ドリーミング』では録り直しをして膨大なレコーディング費用が掛かり、レコード会社から煙たがられた事もあったが単独プロデュース、1985年『愛のかたち』 (Hounds Of Love)も自らがプロデュースを行った。

1986年には初のベスト・アルバム『ケイト・ブッシュ・ストーリー』 (The Whole Story)を発表。またこの間にはピーター・ガブリエルロイ・ハーパーなど英国の奇才ミュージシャンたちとの交流もあった。


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