ケイト・グリーナウェイ
[Wikipedia|▼Menu]

ケイト・グリーナウェイ
Kate Greenaway

誕生日1846年3月17日
出生地 イギリスロンドン
死没年1901年11月6日
死没地 イギリス、Frognal
テンプレートを表示
1885年に描かれたグリーナウェイの作品。右側の男の子はスケルトン・スーツを着用している。

ケイト・グリーナウェイ (Kate Greenaway) ことキャサリン・グリーナウェイ(Catherine Greenaway, 1846年3月17日 - 1901年11月6日)は、イギリスヴィクトリア朝時代に活躍したラファエル前派画家である。児童書の挿絵で知られる。

彼女が描く子どもたちは、男の子はスモック・フロックやスケルトン・スーツ(英語版)[1]、女の子はボンネットモブキャップ・ストロー・ボンネットの付いたハイウエストのピナフォア、ドレスなどを身に着けていた。ケイトが描いたこれらの服は、リバティ百貨店が実際の子ども服のデザインとして採用し、「グリーナウェイ・スタイル」と呼ばれて一つのブームとなった。

1858年から1871年にかけて、フィンズベリー美術学校、サウス・ケンジントン美術学校、ヘザーリー美術学校、スレード美術学校でグラフィック・デザインと美術の教育を受けた。彼女は、急成長していたグリーティングカード市場のためにデザインを始め、クリスマスカードやバレンタインカードを制作した。1879年、版画家で印刷業者でもあるエドモンド・エヴァンス(英語版)の企画により出版された『窓の下で』は瞬く間にベストセラーとなり、彼女の名声を確立した。エヴァンスとのコラボレーションは、その後10年以上にわたって続いた。

絵本の黄金時代と呼ばれるヴィクトリア朝において、ウォルター・クレインランドルフ・コールデコットらとともに活動した。19世紀当時のイギリスでは子供が『小さな大人』として扱われがちだったが、ケイトはその中にあって子供を『子供』として絵描いた数少ない画家の一人である。その作品はイギリスだけでなく世界中で人気を博し、イギリス、ドイツ、アメリカ各国で多数の後追い作家が生まれた。

1955年に彼女を記念して設立されたケイト・グリーナウェイ・メダルは、イギリスのChartered Institute of Library and Information Professionalsにより、毎年、児童書のイラストレーターに授与されている。
生い立ち

ケイト・グリーナウェイは、ロンドン市ホクストンで、労働者階級の家庭に4人兄弟の2番目として生まれた。母のエリザベスは裁縫師、父のジョンは事務所から独立したばかりの版画家だった。ケイトが幼い頃、ジョンはチャールズ・ディケンズの『新版ピックウィック・ペーパーズ』挿絵版画の依頼を受け、仕事に専念するため家族をノッティンガムシャー州の片田舎、ロレストンに住む親戚の家に預けた。ロレストンでの日々はケイトにとって美しく楽しい思い出であり、児童文学研究者のハンフリー・カーペンターは「彼女はロレストンこそ自分の本当の故郷であり、常に思い返す場所だと感じていた」と述べている[2][3]

ところがジョンの仕事先だった出版社が倒産し、一家は収入の道を絶たれてしまう。そこでエリザベスは子供たちを連れてロレストンから戻り、ジョンと合流。1850年、一家はイズリントンに引っ越し、この洒落た町でエリザベスは裕福な顧客を集め、裁縫師の腕を活かして収益性の高い子供服の店を開く。幸いこれが繁盛したことでグリーナウェイ家の財政は安定した[4][5]

一家は店の上のアパートに住んでいたが、幼いケイトは自由に出歩き、よく裏の庭で花を眺めていた[6] [5]。この庭は「彼女の子供時代の思い出の重要な一部であり、完璧な花の庭とはどのようなものかという彼女のビジョンの源である」という[7]。また、ケイトは後に未完となった自叙伝の中で、イズリントンを豊かな色彩と深みのある陰影 に満ちた場所だったと記している[4]

この頃のケイトはチャップ・ブックの熱心な読者で、「眠れる森の美女」、「シンデレラ」、「美女と野獣」のほか、挿絵付きのシェイクスピア作品もお気に入りだった[3]

父ジョンは自分の家族だけではなく、母と二人の妹も養わねばならなかった[4]。彼は版画の仕事を続けていたが、それはたいてい『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』など週刊誌のためのものであり、しばしば徹夜で作業を行っていた[2] 。父の仕事を見るのが好きだったケイトは、その作品を通じてジョン・リーチ、ジョン・ギルバート、ケニー・メドウズなどのイラストに触れていった[8]が、その中には殺人犯ウィリアム・パーマーについての一連の挿絵といった陰惨なものも含まれていた[8]。彼女は後に「子どもたちは人が思うような本には少しも興味を示さず、大人向けの本が好きなことが多いと思う。少なくとも私はそうだった」と記している[3]
教育および初期の仕事16歳のケイト

ケイトはその子供時代、生活上のストレスから逃れるために空想にふけることが多く、多くの人から「変わった子供」と評されていた。しかしケイト自身は「子供の頃はとても幸せな時間を過ごした。不思議なことに、全く同じ環境にいる兄や姉よりもずっと幸せだった」と語っている[5]。反面、その空想癖のために人付き合いを苦手としており、学校に通うのはほぼ不可能なほどだった。そこで母は彼女と姉妹に家で勉強させたが、ケイトはどの科目にも集中できず、姉妹が勉強している間、ただ絵を描いているだけで満足していた。不幸にも、幼少期の不規則な教育により、彼女は文字に対する理解が不十分であったため、後にイラストに合わせて詩を書くことが難しくなった[5]

彼女が芸術への情熱を見出したのは1857年、12歳のときに、年上のいとこに付き添う形でフィンズベリー美術学校に入学してからである[3]。当初は女性専門の夜間コースでデッサン、磁器画、木彫刻、石版画を学んでいたが[3]、ケイトの熱意を見た両親は、1年後、彼女を全日制に移籍させた[9]。ヘンリー・コールによって考案されたカリキュラムは、装飾用の壁紙やタイル、カーペットなどをデザインする職人を養成するためのもので、幾何学的な要素や植物的な要素を、創造性を持たずに忠実にコピーすることに重点が置かれていた。ケイトは1864年にここでのカリキュラムを修了し、サウスケンジントンの王立女子美術学校に進学する[10]

ケイトはかなり内気な性格で、自分は他の学生に比べて地味で魅力がないと思っていたが、人気者のエリザベス・トンプソンと出会って意気投合する[9]。二人はスタジオをシェアし、ともに熱心に学んだ[11]。ケイトは石膏模型から始め、次に歴史的または装飾的な衣装を着たモデルを使って人物を描くことを許されたが、着衣のモデルでは筋肉や骨格について完全に習得することは難しかった[10] 。女性のクラスではヌードモデルが許可されないことに不満を抱いたケイトはヘザーリー美術学校の夜間クラスにも通い始め、ここでエドワード・バーン=ジョーンズウォルター・クレインエドワード・ポインターらと出会った[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef