ケイコ・フジモリ
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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はフジモリ (藤森)、第二姓(母方の)はヒグチ (樋口)です。

ペルー政治家ケイコ・ソフィア・フジモリ・ヒグチKeiko Sofia Fujimori Higuchi
ケイコ・フジモリ
生年月日 (1975-05-25) 1975年5月25日(45歳)
出生地リマ
所属政党人民勢力党
配偶者マーク・ビラネラ
親族アルベルト・フジモリ
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ケイコ・ソフィア・フジモリ・ヒグチ(Keiko Sofia Fujimori Higuchi、日本名:藤森 恵子(ふじもり けいこ)1975年5月25日 - )は、ペルー実業家政治家人民勢力党党首を務める。ブラジルの建設企業オデブレヒトのスキャンダル[1](英語版)に関与したと言われており[2]、2020年1月現在も捜査が続けられている。目次

1 人物

2 政治活動

2.1 政界進出

2.2 2011年ペルー大統領選挙

2.3 2016年ペルー大統領選挙


3 オデブレヒト社のマネーロンダリング

4 関連人物

5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典


6 外部リンク

人物

ペルーの第91代大統領アルベルト・フジモリと、スサーナ・ヒグチの長女(第1子)としてリマに生まれる。1993年、米国に留学しニューヨーク州立大学ストーニブルック校に入学。その後、1997年ボストン大学を卒業。その後ペルーに帰国するが、2004年に再度渡米し、コロンビア大学コロンビア・ビジネス・スクール修了。学位MBA

1994年8月には、当時大統領職にあった両親が離婚したことを受け、母の代わりに19歳でファーストレディに指名された。ファーストレディとしての仕事は父が2000年に大統領職を罷免されるまで続けた。

2004年にコロンビア大学の同級生でイタリア系アメリカ人のマーク・ビラネラ(IBMコンサルタント)と結婚。2005年に再度ペルーに帰国。以後、本格的に政治活動を開始した。夫は2009年にペルー国籍を取得しアメリカとの多重国籍。

夫との間に二人の娘・キアラとカオリをもうけている。
政治活動
政界進出

2006年にペルーの総選挙に出馬したケイコは元大統領の娘という圧倒的な知名度を背景に、ひとつの選挙区としては過去最大の個人得票となる60万票あまりを集めて当選する。国会議員となった。この選挙で父アルベルトが率いる「未来同盟(Alianza por el Futuro)」は共和国議会の院内会派で第4党となり、ケイコはその主要メンバーとして活動した。

2009年にアルベルトが有罪となり禁固25年の判決が下ると、分裂していたフジモリ派の議員を糾合する中道右派の政党フエルサ2011(Fuerza 2011)を立ち上げ、ケイコ自身はその党首となった。新党結成後「2011年の大統領選挙が真の意味で父の有罪・無罪を決める場になる」と発言し、2011年の大統領選挙への出馬を強く示唆した[3][注釈 1]

2006年に国会議員に当選して以来、ケイコの支持率は20%程度を常に維持しており[4]、はやくから有力な次期大統領候補の一人と目されていた。ケイコ支持の背景には、1980年代のハイパーインフレを押さえ込んでペルー経済を立て直し、麻薬組織および左翼ゲリラによる国内の混乱を沈静化させ、貧困層への富の再分配を行った父アルベルトへの賞賛がある[5]。そのため大統領選挙への立候補表明後は、服役中の父の功績を強調する戦術をとってきた[4]。さらに当選すれば父親の恩赦を行うと公言することで[5]、父アルベルトの支持者が多い貧困層から支持を得ることに成功した。しかし一方でペルー国内では、政権末期に憲法停止や人権抑圧を行ったアルベルトへの反発も強固に存在している。たとえばノーベル賞作家バルガス・リョサは「罪に問われ、収監されている独裁者の娘が当選したら国の破局だ。阻止するために、あらゆる手段をとる」と発言しているほか[6]、「父親の恩赦以外に目立った政策がない」「恩赦は民主主義に反する」といった批判が、従来のペルー政治を支配してきた富裕層・保守層を中心に展開されている[5]。父アルベルトの毀誉褒貶あい半ばする評価がそのまま、ケイコ・フジモリへの期待と反発に直結している格好である。なお、後述のとおり選挙戦後半からは父アルベルトを恩赦する考えはないと方針を改めている[7]


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