グージ・ストリート駅
Goodge Street station
トテナム・コート・ロードに面した出入口
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Goodge Street stationセントラル・ロンドンの地図上でのグージ・ストリート駅
Goodge Street stationの位置
所在地トテナム・コート・ロード
グージ・ストリート駅(グージ・ストリートえき、Goodge Street tube station[2])は、トテナム・コート・ロード(英語版)に面したロンドン地下鉄の駅。ノーザン線(チャリング・クロス支線)のトテナム・コート・ロード駅とウォーレン・ストリート駅の間にあり、運賃区分はゾーン1である。 1907年6月22日、「トテナム・コート・ロード駅」として開業したが、1908年9月3日に、それまでノーザン線とセントラル線の間で乗り換え用の通路がなく、それぞれの線の駅が別々の駅名であった現在のトテナム・コート・ロード駅に通路が開設された際に、現在の駅名に改称した。グージ・ストリート駅の改称も同日に行なわれた。 グージ・ストリート駅は、乗り場と地上の間での乗客を昇降させる手段を、エスカレーターではなく、エレベーター(リフト)に依存している数少ない古い形式の駅のひとつである。また、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}リフトに乗り場へ向かう乗客と、出口へ向かう乗客の流れを分離する、人の流れの当初からの設計が残されている数少ない駅のひとつである。[要出典] ラッシュのピーク時間帯には、極めて多数の乗降客がつめかけるが、人の流れは一方通行的である。駅から出て行く乗客が多い時間帯には駅へ入ってくる乗客はほとんどおらず、逆もまた同様であるため、4基のリフトは一方向では満員でも、逆方向はほとんど人がいないということがよくある。[要出典] グージ・ストリート駅は、第二次世界大戦当時のロンドン深部防空壕
歴史
深部防空壕
進行作戦の準備において、グージ・ストリート駅はアメリカ陸軍の通信部隊が設置した通信施設としてだけ使用された。これはロンドン市内や周辺に設置された多数の通信施設群のひとつに過ぎなかった。ほかにも、SHAEF司令部が置かれていたグロスヴナー・スクエア (Grosvenor Square) 20番地や、オックスフォード・ストリートのセルフリッジ百貨店の地下などに同様の施設があった。この2施設はいずれも建物が現存している。さらに、アイゼンハワー将軍は、グージ・ストリート駅の施設から放送を行ったわけではなく、ラジオ放送を行ったわけでもない。アイゼンハワー将軍は、まず暗号電報をルーズベルト大統領に送り、次いでチャーチル首相に電話をかけた。将軍による侵攻作戦実行の決断は、ポーツマス近郊のサヴィック・ハウス(英語版)(Southwick House) に置かれた侵攻作戦本部で下された[5]。
戦後、この防空壕は、宿泊施設として使用され、最大で8000人の兵員が収容された。
大衆文化の中で