グロリア・ヴァンダービルト
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グロリア・ヴァンダービルト
Gloria Vanderbilt
1959年撮影
生誕Gloria Laura Vanderbilt
(1924-02-20) 1924年2月20日
ニューヨーク市マンハッタン
死没 (2019-06-17) 2019年6月17日(95歳没)
国籍 アメリカ合衆国
職業芸術家
女優
ファッションデザイナー
配偶者パット・ディシコ(1941 - 1945)
レオポルド・ストコフスキー(1945 - 1955)
シドニー・ルメット(1955 - 1963)
ワイヤット・クーパー(1963 -1978)
子供アンダーソン・クーパー
他3人
親父: レジナルド・ヴァンダービルト
母: グロリア・モーガン
家族ヴァンダービルト家
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1958年撮影

グロリア・ヴァンダービルト (Gloria Laura Vanderbilt, 1924年2月20日 - 2019年6月17日) は、アメリカ合衆国芸術家作家女優相続人ソーシャライトジーンズの初期のデザイナーとして知られる。高名なヴァンダービルト家の一族であり、CNNのアンカーマンであるアンダーソン・クーパーの母。
生い立ち幼少期のグロリア・ヴァンダービルト(左)

ニューヨーク州ニューヨークで父レジナルド・クレイプール・ヴァンダービルト(1880年 ? 1925年)[1][2]と母グロリア・モーガン(1904年 ? 1965年)[3][4]の一人娘として生まれた。米国聖公会からグロリア・ローラ・ヴァンダービルトと洗礼名を受けたが、父の死後は母にならいカトリック教会堅信[5]。父にとって母とは再婚であり、キャスリーン・ネイルソンとの最初の結婚でもうけた異母姉キャスリーン・ヴァンダービルト(1904年 ? 1944年)がいる[6]

生後18ヶ月の頃、父が肝硬変により亡くなり、500万ドルの信託基金の半分の相続人となった[7]。彼女が成人するまで母親が管財人であり、母は彼女を連れてパリ旅行で何度も往復した。幼い彼女が「Dodo 」と呼び、手のかかる時代を面倒見てくれ仲の良い乳母[8]、および当時のプリンス・オブ・ウェールズであるエドワード8世の元愛人であった母の双子の姉テルマ[9]も同行した。あまりにも頻繁にパリを往復するため、伯母ガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニーは彼女の母の経済状況を調査。彫刻家で慈善家のホイットニーは彼女の養育権を求め、1934年に起こった養育権裁判はすぐに有名になった[10][11]。この裁判は当時大きなスキャンダルとなり、まだ幼い彼女が周囲の影響を受けずに自分の意見を述べることができるよう裁判官は傍聴人全てに退出を命じた。何人かは法廷内で泣いたり嘆いたりしていた。母親に親としての資格がないと証言され、母親はこの法廷闘争で敗北し、彼女は伯母ガートルードの被保護者となった[9]

訴訟は続いたが、1937年暮れまでに彼女の母親は彼女の信託基金を400万ドル以上も使ってしまった[12]。面会権に関しても、母のおそらく騒々しいであろうライフスタイルが彼女に不適切な影響を与えないかどうか慎重に検討された。ロングアイランドのオールド・ウエストバリーにある伯母ガートルードの豪華な邸宅で育てられた。同年代のいとこが住む広大な地所を囲むように建てられた家、またはニューヨーク市内に住んでいた。

この裁判の様子は1982年のNBCの連続ドラマ『Little Gloria... Happy at Last 』で描かれ、エミー賞6部門とゴールデン・グローブ賞にノミネートされた。

ロングアイランドのGreenvale School 、コネチカット州ファーミントンのMiss Porter's School 、ロードアイランド州プロビデンスのWheeler School [13][14]で学び、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで芸術的才能を伸ばし、彼女のキャリアは徐々に知られるようになった。成人し、信託基金を自分でコントロールできるようになると、母とは完全に切れた[15]が晩年には世話をするようになった[16]

母はカリフォルニア州ビバリーヒルズで双子の姉であるファーネス子爵夫人テルマと長年暮らし、1965年、亡くなった。
経歴

ネイバーフッド・プレイハウスでサンフォード・マイズナーから演技を学び、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで芸術を学んだ。油彩画水彩画パステル画で個展を開き、芸術作品で知られるようになった。例えばニューヨークのMargo Feiden Galleries Ltd. などで展示を行なっていた。1968年頃より、ホールマーク・カード社の紙製品や繊維業者のブルームクラフトで図柄に使用され、ライセンス化されるようになり、リネン、陶磁器、ガラス製品、食器類のデザインを手掛けるようになった。

1970年代、ファッション業界に進出し、グレンテックスと共に彼女の名のライセンスでスカーフを発表。1976年、インドのデザイナーMohan Murjani のMurjani Corporation は後ろポケットに彼女の名と彼女の白鳥のロゴを刻印したデザイナー・ジーンズの発売を提案。彼女のジーンズは当時の他のジーンズよりもタイトでフィットするものであった。ロゴは最終的にドレス香水にも登場。彼女はジーンズの他、ブラウス、シーツ、靴、革製品、リキュール、アクセサリーも手掛けるようになった。2002年、ジョーンズ・アパレル・グループは彼女のジーンズの権利を要求。彼女は公の場に登場した最初のデザイナーの1人であったが、シャイな性格のため彼女にとっては困難であった。

1978年、彼女のブランド名の権利を ⇒Murjani Groupに売却。その後ニューヨークの7番街に自身の企業GV Ltd. を開業。

1982年から2002年までロレアルは「グロリア・ヴァンダービルト」のブランド名で8種の香水を発売[17]


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