グロスター
市
Gloucester
舵を執る男、漁師の慰霊碑
愛称: "夏を過ごす場所"
標語: "アメリカ最古の海港"
エセックス郡内の位置(赤)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度36分57秒 西経70度39分45秒 / 北緯42.61583度 西経70.66250度 / 42.61583; -70.66250
グロスター(英: Gloucester、[??l?st?r])は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州のエセックス郡にある都市。「ノースショア」と呼ばれる州の北部海岸に位置している。人口は2万9729人(2020年)。漁業の重要な中心かつ夏の人気ある観光地として、港の北側にある都市化された中核部と、外郭にあるアニスクアム、ベイビュー、レインズビル、フォリーコーブ、マグノリア、リバーデール、イーストグロスター、ウェストグロスターと呼ばれる地区で構成されている。観光船 グロスターの当初領域にはロックポート町が含まれ、「サンディベイ」(砂の湾)とも呼ばれていた。1840年2月27日に正式に分離された。1873年、グロスターは市として再度法人化された。 グロスターは1623年にイングランド王ジェームズ1世がチャーターした「ドーチェスター・カンパニー」と呼ばれる遠征隊によってアン岬に設立された。この遠征隊はイングランド南部ドーセットの州都ドーチェスター出身の者達で構成されていた。後にマサチューセッツ湾植民地を構成することになるイングランド人開拓地最初期のものであり、1626年に設立されたセイラム市や、1630年のボストン市の設立に先立つものだった。開拓者の最初の集団はハーフムーン海浜で上陸し、その近くに入植し、現在ステージフォート公園と呼ばれる野原で漁業基地を設営した。この開拓地が存在したことについては、現在その公園にある高さ50フィート (15 m) の巨岩に付けられた記念銘板に記されている。 この最初の開拓地での暮らしは厳しく、短命に終わった。1626年頃に放棄され、開拓者達は農耕のためにより肥沃な土壌が見つかったノームキーグ(現在のセイラム)に移った。集会所の建物までが解体され、新しい開拓地に移された。記録には残されていないが、翌年のある時点で、この地域には再度入植があり、緩り進行した。町は1642年に公式に法人化された。課税台帳に「グロスター」という名前が現れるのもこの時であるが、その綴りにはいくらか異同があった。その名前はイングランド南西部にあるグロスター市から採られた。おそらく開拓者の多くがそこの出身だったことが考えられるが、イングランドのグロスターは議会派の強い地盤であり、1643年に起きたグロスター包囲戦のときも、エセックス伯爵の援助で国王軍に対して守り切ったことから来ている可能性が強い。 この新しい恒久的開拓地はアニスクアム川の屈曲部にあった湿地の入り江、タウングリーン地域を中心とした。その地域は現在グラントサークルがある場所となっており、マサチューセッツ州道128号線が市内の主要通り(ワシントン通り/州道127号線)と交わる大きなロータリー交差点となっている。ここで最初の恒久的開拓者達が集会所を建て、その後の100年間近く、「アイランド」の開拓地の中核になっていた。ニューイングランドの他の初期海岸町とは異なり、グロスターの発展は現在ある港の周りではなく、最初に入った内陸部が中心だった。これは港のウォーターフロントから2マイル (3 km) 近く内陸にタウングリーンがあることから明らかである。 タウングリーンは開拓者達が最初の学校を建てた場所でもあった。マサチューセッツ湾植民地の法により、100家族以上ある町は公立の校舎を建てる必要があった。この規定に合わせたのが1698年のことであり、トマス・リッグスが町で最初の校長になった。 1710年、ホワイト・エラリー邸はタウングリーン傍に建てられた。グロスター最初の牧師であるジョン・ホワイト(1677年-1760年)のために、湿地の縁に建設された[2]。 初期の産業は自給自足農業と製材業だった。土壌が肥えておらず、岩の多い丘陵だったために、アン岬の地区は大規模農業には向いていなかった。小規模家族農園と家畜が生存を維持するものだった。今日グロスターの町が知られる漁業は近海に限られ、後年にあるような大漁ではなく、少量の収穫で暮らしていた。グロスターの漁師がグランドバンクを漁場にしたのは18世紀も半ばになってからだった。 初期のグロスター住民はアン岬の森林を切り払って農地や牧草地とし、木材はボストンにまで送って建物を建てた。グロスターの岩の多い荒地は2世紀もの間開墾されたままだったが、20世紀になって植林が行われた。アイランドの内陸部は「コモンズ」、「コモンビレッジ」、「ドッグタウン」などと呼ばれるようになった。ここでは巨岩や湿地の間、丘の間を曲がりくねる道路にそって小さな住宅が散開していた。これらの住宅は掘っ立て小屋と言ってもよかった。1軒のみが二階建てで造られていた。そのような大きさだったが、家族の数世代がそこで育った。このような家屋の1つの特徴は、床の片側の下に地下の穴(食料保存用)が掘られ、石組の基礎の上に支えられていた(モルタルは使われていない)。この地下の穴は、グロスターの内陸部をとおる道沿いに現在も見ることができる。これらの穴と幾らかの壁が現在もそこに残っている遺物となっている。「グロスター港」、1877年頃、ウィリアム・モリス・ハント画
歴史
開拓期