ロバート・フィッツロイ
Robert FitzRoy
初代グロスター伯
在位1121年頃 - 1147年
出生1090年頃
ノルマンディー公国、カーン
死去1147年10月31日
イングランド王国、ブリストル
配偶者メイベル・オブ・グロスター
子女一覧参照
家名ノルマンディー家
父親イングランド王ヘンリー1世
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初代グロスター伯ロバート(Robert, 1st Earl of Gloucester, 1090年頃 - 1147年10月31日)は、イングランド王ヘンリー1世の庶子である。出生地名を取ってロバート・デ・カーン(ロベール・ド・カーン、Robert De Caen)と呼んだり、「王の子」を意味するフィッツロイ(FitzRoy)のあだ名を付けることもある。 ロバートは父ヘンリーがイングランド王位を継承するより以前で未婚の頃に、ノルマンディーのカーンで生まれた。正確な誕生日と母の名前は伝わっていない。グロスターの領主ロバート・フィッツハモン(イングランド王ウィリアム1世の従兄弟)の娘メイベル・オブ・グロスター(フィッツハモン)と結婚し、1121年頃、グロスター伯
生涯
父ヘンリー1世が死ぬと、ヘンリーが後継者に指名したロバートの異母妹マティルダ(通称「モード王女」)と、実力でイングランド王位を獲得したスティーブン王の間で王位を巡る争いが起こった。ロバートは、スティーブン王への忠誠を放棄し、モードを支持する派の重鎮として活躍した。
1141年には、リンカーンの戦いでスティーブンを捕える功績を立てる。しかしまもなくスティーブンの支持者にウィンチェスターで敗れて逆に捕えられてしまい、モードは兄ロバートを助けるため、スティーブン王を交換に解放せざるを得なかった。
ロバートはその後もモード支持派として戦いつづけ、内戦状態が継続する最中の1147年10月に亡くなった。
子孫にイングランド王ジョンの最初の妻(即位前に離婚)イザベル・オブ・グロスター、スコットランド王ジョン・ベイリャルおよびロバート1世がいる。 メイベル・オブ・グロスターとの間に以下の子女をもうけた。 以下の庶子がいる。 先代
子女
ウィリアム(1116年 - 1183年) - 第2代グロスター伯
ロジャー(1118年頃 - 1179年) - ウスター司教
ハモン(1122年頃 - 1159年) - トゥールーズ包囲の際に戦死
リチャード(1125年頃 - 1175年) - クルリー領主
マティルダ(1126年頃 - 1189年) - 第4代チェスター伯ラヌルフ・ド・ガーノンと結婚
メイベル - オーブリー・ド・ヴィアーと結婚
フィリップ(1130年頃 - 1148年) - クリクレード領主
リチャード(1142年没) - バイユー司教
ロバート(1170年没) - グロスター城主
メイベル - センヘニズ領主グリフィズと結婚
トマス
?グロスター伯
1121年頃 - 1147年次代
ウィリアム
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