グレーブス・アースキン
[Wikipedia|▼Menu]

グレーブス・アースキン
Graves Erskine
ガールスカウトのクッキー売りとアースキン将軍(1945年頃)
生誕 (1897-06-28) 1897年6月28日
アメリカ合衆国ルイジアナ州コロンビア(英語版)
死没1973年5月21日(1973-05-21)(75歳)
アメリカ合衆国メリーランド州ベセスダ
所属組織アメリカ海兵隊
軍歴1912年 - 1916年(州兵)
1917年 -1953年(海兵隊)
最終階級 海兵隊大将
出身校ルイジアナ州立大学
陸軍歩兵学校
墓所アーリントン国立墓地
テンプレートを表示

グレーブス・ブランチャード・アースキン(Graves Blanchard Erskine、1897年6月28日 - 1973年5月21日)は、アメリカ海兵隊員第二次世界大戦中の硫黄島の戦いにおける第3海兵師団長として特にその名を知られる。最終階級は海兵隊大将
経歴
生い立ち

1897年、ルイジアナ州コロンビアに生まれる。高校卒業時には卒業生総代(Valedictorian)を務めた。1912年秋にルイジアナ州立大学に入学し、同じ時期にルイジアナ州兵に入隊している。1916年より州兵としてメキシコ国境に派遣されている。1917年5月21日、海兵隊予備役(英語版)(U.S. Marine Corps Reserve)入隊。同年6月、ルイジアナ州立大学卒業。
軍歴

大学卒業後、海兵隊入営。1917年7月5日、海兵隊少尉任官。
第一次世界大戦

1918年1月、第6海兵連隊(英語版)所属の小隊長としてフランス戦線に派遣される。同年7月のシャトー=ティエリの戦い(英語版)にも参加して負傷しているが、以後もベローウッドの戦い(英語版)、ブレッシュの戦い、ソワソンの戦い(英語版)などの戦闘に参加した。1918年9月のサンミエルの戦い(英語版)で重傷をおった彼は10月までに米本土の病院へ送還され、9つの手術を受け、1年間の入院生活を余儀なくされた。

大戦における戦功から、彼は銀星章を受章している。また彼の所属した第6連隊はフランスにより戦功十字章(英語版)(Croix de Guerre)を3度授与されており、グレーブスを含む第6連隊の将兵はフラジェール(Fourragere)と呼ばれる飾緒状の記章を着用する事が認められた。

その後、ミズーリ州カンザスシティの徴募事務所、在ハイチの第1臨時海兵旅団、巡洋艦USSオリンピア搭乗部隊、在サントドミンゴの第2海兵旅団などに勤務する。1924年9月、バージニア州クアンティコの海兵隊兵舎で需品部長(Depot Quartermaster)となる。その後、ジョージア州フォート・ベニング陸軍歩兵学校を卒業し、クアンティコ海兵隊学校の教官となった。

1928年3月、彼は第2海兵旅団およびニカラグア国家警備隊(英語版)分遣隊の隊員としてニカラグアに派遣され、その後2年間勤務した。この期間中、彼は大統領警護隊の組織を行ったほか、当時の大統領ホセ・マリア・モンカダ・タピア(英語版)の顧問兼護衛を務めた。また国家警備隊の部隊を率いてニカラグア北部における山賊討伐作戦の指揮をとった。

帰国後、基本術科学校(英語版)の教官を務めた後、指揮幕僚学校(Command and General Staff School)を卒業し、クアンティコの海兵隊学校にて教官として配属された。1935年1月から1937年5月まで中華民国北平にある在中アメリカ大使館付き海兵分遣隊の一員として勤務。1937年6月から再び海兵隊学校に勤務。1940年、第5海兵連隊(英語版)の監督将校(Executive Officer)としてクアンティコおよびグァンタナモ基地に勤務した。
第二次世界大戦

第二次世界大戦の勃発時、彼は大西洋艦隊水陸両用隊(Amphibious Force, Atlantic Fleet)の参謀長だった。1942年9月、太平洋艦隊水陸両用軍団(Amphibious Corps, Pacific Fleet)の参謀長となる。1943年7月から8月にかけて、アラスカアリューシャン列島にてアッツ島およびキスカ島への侵攻に備えた演習および訓練・作戦立案等を行った。この直後、彼は第5水陸両用軍団(英語版)の参謀長に就任し、太平洋戦線に送られた。1943年11月、准将に昇進すると共に第5水陸両用軍団の副司令となる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef