グレート・ウェスタン鉄道
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この項目では、イギリスのかつての鉄道会社について説明しています。国鉄民営化後の列車運行会社については「グレート・ウェスタン・レールウェイ」を、オーストラリアの未成鉄道路線については「グレート・ウェスタン鉄道 (クイーンズランド州)」をご覧ください。

グレート・ウェスタン鉄道

運行1838年–1948年
後継イギリス国鉄西部局
軌間1,435 mm
過去の軌間7フィート0.25インチ(2,140ミリメートル)
全長3,797マイル(約6,111キロメートル)(1924年時点)
本社イギリス・ロンドン
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グレート・ウェスタン鉄道(グレート・ウェスタンてつどう、英語: Great Western Railway、略称GWR)は、ロンドンと南西・西部イングランドおよびウェールズの大半を結んでいた、かつてのイギリスの鉄道会社である。1833年に設立され、1835年の議員立法で鉄道の敷設許可を得て、1838年に列車の運行を開始した。イザムバード・キングダム・ブルネルが技術者を務め、7フィート4分の1インチ(2,140ミリメートル軌間広軌を採用したが、1854年以降の一連の合併により、4フィート8.5インチ(1,435ミリメートル)軌間の鉄道も運行するようになった。広軌での列車運行は1892年に終了した。GWRは鉄道会社の四大グループ化を促した1921年鉄道法でも独立を保った唯一の会社で、周辺地域に残っていた鉄道会社を合併した。最終的に1947年末に国有化されてイギリス国鉄の西部局(ウェスタン・リージョン)となった。

グレート・ウェスタン鉄道はその略称GWRにちなんで、「神の素晴らしい鉄道」(God's Wonderful Railway) とか「大遠回り」(Great Way Round) などと呼ばれたが、サウス・ウェスト・イングランドのリゾート地へ多くの人々を運んだことから、「休日線」(Holiday Line) としても知られた。会社の機関車は多くが自社のスウィンドン工場で製造され、ブランズウィック・グリーンで塗装されていた一方、客車はその期間中の大半、チョコレートとクリームのツートーンカラー塗装を採用していた。貨車は当初赤で塗装されていたが、後に灰色に変更された。

GWRの長距離列車には、フライング・ダッチマンコーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレスチェルトナム・スパ・エクスプレスなどがあった。また多くの近郊列車、地方の列車なども運行しており、一部は蒸気動車やオートコーチ(英語版)(制御客車と蒸気機関車を組み合わせた固定編成方式の列車)などで運転されていた。またイギリスで一般的なものより大型で経済的な貨車の使用を開始した会社でもある。またバス網も運営しており、レールウェイ・エア・サービス(英語版)という航空会社の運営に参画し、また船舶、桟橋、ホテルなども所有していた。
歴史
創始期GWRのブリストルにおける最初のターミナル、ブリストル・テンプル・ミーズ駅の、ブルネル設計によるトレイン・シェッドの内部、ジョン・クック・ボーン(英語版)による版画から

GWRは、ブリストルの港がイギリスで2番、そしてアメリカとの貿易では1番であることを維持し続けたいというブリストルの商人たちの望みから発祥している。船の規模が次第に大型化し、またブリストルを流れるエイヴォン川(英語版)に土砂が堆積しつつあったことから、リヴァプールがますます魅力的な港となっており、さらに1830年代にはリヴァプールとロンドンと結ぶ鉄道が建設中であったことから、ブリストルの地位は脅かされていた。これに対するブリストルの回答は、ロンドン側での関係者と協力して、ブリストルとロンドンを結ぶ独自の鉄道路線を、リヴァプールへ建設中の路線をはるかに上回る水準で建設することであった[1]

会社は1833年にブリストルで開かれた公開集会で設立され、1835年の議員立法により法人格を得た。当時29歳だったイザムバード・キングダム・ブルネルが技術者に任命された。これはその時点までで彼にとって群を抜いて大きな契約であり、彼は2つの論議を巻き起こす決断を行った。まず、高速で安定した走行ができるように、車体の外側に大きな車輪を装備できるよう、約7フィート(2.13メートル)の広軌を選んだことがある。2番目にマールバラ・ダウンズの北を通るルートを選択したことがあり、そこには重要な都市はなかったが、オックスフォードグロスターへ将来的に接続の可能性があった。多くの助けを得ながら、ロンドンからブリストルまでの全線を彼自身が調査した。その助けの中には、ブリストルの法務事務所オズボーン・クラーク(英語版)から雇った彼の事務弁護士のジェレミア・オズボーン (Jeremiah Osborne) がおり、ある機会には彼自身がエイヴォン川でボートを漕いで、岸辺のルート調査を行うブルネルを案内したこともあった[2][3]

ジョージ・トーマス・クラーク(英語版)はこのプロジェクトにおいて技術者として重要な役割を果たし、テムズ川に架かるゲートハンプトン橋(英語版)およびマウルスフォード橋(英語版)、そしてパディントン駅などを含む2つの工区の監督をしたとされる[4]。大規模な土工作業に関わったことがクラークに地質学考古学への関心をもたらしたと思われる。後にクラークは匿名でこの鉄道に対する2冊のガイドブックを書き、1冊はジョン・クック・ボーン(英語版)によるリトグラフを挿絵としており[5]、もう1冊にはブルネルのやり方と広軌採用への批判を含んでいた[6]サニング切通し(英語版)、1846年

パディントン駅からメイデンヘッド・ブリッジ駅(英語版)までの最初の22.5マイル(約36キロメートル)の区間は、1838年6月4日に開通した。メイデンヘッド橋(英語版)が完成して1839年7月1日にトワイフォード駅(英語版)まで延長され、深いサニング切通し(英語版)を通ってレディング駅まで1840年3月30日に開通した。この切通しでは2年後に、地すべりに貨物列車が突っ込んで、無蓋貨車に乗っていた10人の旅客が死亡する事故(サニング切通し鉄道事故(英語版))が発生した。この事故が、鉄道会社に対してより良い客車を旅客に提供することを求める1844年鉄道規制法イギリスの議会が制定するきっかけとなった。レディング駅からスティーブントン駅(英語版)までの次の区間ではテムズ川を2回渡り、1840年6月1日に開通した。さらにファリンドン・ロード駅(英語版)までの7.25マイル(約12キロメートル)が1840年7月20日に開通した。この間、ブリストル側でも工事が開始されており、1840年8月31日にブリストルからバース・スパ駅まで11.5マイル(約19キロメートル)が1840年8月31日に開通した[7]

1840年12月17日にロンドン側からの路線はスウィンドンの西にあり、ロンドンのパディントン駅から80.25マイル(約129キロメートル)の地点にある暫定的なターミナルであるウートン・バセット・ロード駅(英語版)まで開通した。ウートン・バセット・ロード駅からチッペナム駅(英語版)までの区間は1841年5月31日に開通し、同時にサイレンセスター・タウン駅(英語版)までのチェルトナム・アンド・グレート・ウェスタン・ユニオン鉄道(英語版)が接続するスウィンドン・ジャンクション駅(英語版)も開業した。この路線はGWRが工事をした独立路線で、1841年6月14日にブリストルからブリッジウォーター駅(英語版)までの最初の区間が開通したブリストル・アンド・エクセター鉄道(英語版)と同様である。GWRの本線で最後の区間となったのが全長1.83マイル(約2.95キロメートル)のボックストンネルで、1841年6月30日に開通し、これによりロンドンのパディントン駅からブリストルを通りブリッジウォーター駅まで152マイル(約245キロメートル)に列車が運行されるようになった[8]。1851年にGWRは、ロンドン、レディング、バース、ブリストルを結ぶ競合輸送事業者であったケネット・アンド・エイヴォン運河(英語版)を買収した[9]

GWRは、チェルトナム・アンド・グレート・ウェスタン・ユニオン鉄道やブリストル・アンド・エクセター鉄道を含め、いくつかの広軌の鉄道会社と緊密にかかわっていた。サウス・デヴォン鉄道(英語版)は1849年に開通して広軌の線路がプリマス(英語版)まで伸び[10]、そこからコーンウォール鉄道(英語版)がロイヤルアルバート橋を渡ってコーンウォールまで1859年に開通して[11]、最終的にウェスト・コーンウォール鉄道(英語版)によりペンザンス駅にまで1867年に到達した。


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