グレート・アントニオ
1946年
プロフィール
リングネームグレート・アントニオ
本名Antonio Barichievich
(Anton Bari?evi?)
ニックネーム密林男
怪物
身長188cm - 193cm
体重160kg - 210kg
誕生日1925年10月10日
死亡日 (2003-09-07) 2003年9月7日(77歳没)
出身地 クロアチア
ザグレブ
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グレート・アントニオ(The Great Antonio、本名:Antonio Barichievich、1925年10月10日 - 2003年9月7日)は、カナダのプロレスラー。クロアチア・ザグレブ出身[1]。 1945年、クロアチア併合後のユーゴスラビアからカナダのノバスコシア州ハリファックスに移住[1]。怪力自慢のストロングマンとしてスポーツ・エンターテインメントのキャリアを開始し、1952年には433トンの列車を19.8メートル引っ張ったとしてギネス世界記録に掲載され、1960年には乗客を乗せた4台の路線バスを引っ張ったとして再度ギネス世界記録に掲載されたという[1]。 サーカスやカーニバルのアトラクションへの出演を本業としつつプロレスのリングにも上がり、1959年はテキサスのダラス地区を皮切りに、カナダやアメリカの各テリトリーを転戦[2]。ヒューストンではトシ東郷&デューク・ケオムカの日系コンビ、カルガリーではモーリス&ポールのバション兄弟を相手に、それぞれハンディキャップマッチを行った[3][4]、トロントではジン・キニスキーやハードボイルド・ハガティ[5]、ミネアポリスではバーン・ガニアと対戦[6]。ミネアポリス地区(後のAWA)のカナダでの拠点だったウィニペグでは、10月2日にヘイスタック・カルホーンとの超巨漢対決も実現している[6]。 1960年は5月から9月にかけてニューヨーク地区(後のWWWF)に出場し、ブルーノ・サンマルチノ、アントニオ・ロッカ、リッキー・スター、ベアキャット・ライト、ジョニー・ウォーカー、ルー・アルバーノらと対戦[7]。ヒールのポジションでパンピロ・フィルポやドクター・ジェリー・グラハム、ワルドー・フォン・エリックともタッグを組んだ[7]。 1961年5月、グレート東郷のブッキングで日本プロレスの『第3回ワールド大リーグ戦』に初来日。6月2日には蔵前国技館にて力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した[8]。来日時は、羽田空港で報道陣にソファーを投げつけ、神宮外苑絵画館前で満員の大型バス3台(三菱ふそう車)を引っ張るなどのデモンストレーションを行い話題を集めた[2][9][10]。しかし、試合自体は実力が伴わず、力道山とのタイトルマッチも2-0のストレート負け[11]。また、観客動員への貢献を鼻にかけ、ボーナスの支払いや契約の延長を要求するなど増長した態度を見せたため、同シリーズに来日していたミスターXやカール・クラウザーらに制裁を加えられ、契約満了をもってシリーズ途中で帰国している(契約最終日となった6月9日の高松大会では、リング上でもミスターXから制裁を受けたという)[2][11]。 帰国後はオクラホマ地区を経てテキサスのアマリロ地区に登場、10月12日に当時ドリー・ファンク・シニアが保持していたアマリロ版のNWA北米ヘビー級王座に挑戦している[12]。同月18日と19日には "タフ" トニー・ボーンとの 2 out of 3 Falls Match を行い、23日にはインディアンレスラーのスニー・ウォー・クラウドと対戦した[12]。 翌月の11月8日には、ミズーリ州スプリングフィールドにおいて8人バトルロイヤルに出場[13]。翌9日にもテキサス州ウィチタフォールズでの7人バトルロイヤルにダニー・ホッジらと共に出場した[14]。これ以降、1963年4月13日のメイン州バンゴーでのハンディキャップマッチ[15]を最後に、アメリカでの試合記録は残っていない[16]。その後はサーカス業界に戻ったとされている[2](カナダでは、1964年と1965年、そして1971年に試合記録が残っている[1][16])。
来歴