グレース・ケリー
[Wikipedia|▼Menu]

グレース・ケリー
Grace Kelly
モナコ公妃
グレース公妃(1981年撮影)
在位1956年4月18日 - 1982年9月14日

全名Grace Patricia
グレース・パトリシア
出生1929年11月12日
アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア
死去 (1982-09-14) 1982年9月14日(52歳没)
モナコ ラ・コル、プリンセス・グレース病院センター
埋葬1982年9月18日
モナコ モナコ=ヴィル、聖母無原罪大聖堂
配偶者レーニエ3世
子女カロリーヌ
アルベール2世
ステファニー
父親ジョン・ブレンダン・ケリー
母親マーガレット・キャサリン・メイジャー
宗教ローマカトリック教会
サイン
テンプレートを表示

グレース・ケリー
Grace Kelly
グレース・ケリー(1953年)
本名Grace Patricia Kelly
グレース・パトリシア・ケリー
生年月日 (1929-11-12) 1929年11月12日
没年月日 (1982-09-14) 1982年9月14日(52歳没)
国籍 アメリカ合衆国
活動期間1949年 - 1956年

 受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1955年喝采
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演女優賞
1954年裏窓』『喝采』
ゴールデングローブ賞
主演女優賞 (ドラマ部門)
1955年『喝采』
助演女優賞
1954年『モガンボ
その他の賞

テンプレートを表示
アカデミー授賞式に出席するグレース。1956年

グレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly、1929年11月12日 - 1982年9月14日)は、モナコ公国の公妃。元アメリカ合衆国女優

同時代に活躍した女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的な、気品に満ちた容姿が「クール・ビューティー」 (cool beauty) と賛美された。人気絶頂の最中、ヨーロッパの君主と結婚し、女優業から引退した。
生涯
生い立ち

1929年ペンシルベニア州フィラデルフィアアイルランドカトリックの裕福な家に生まれた。父ジョン・ブレンダン・ケリー(John B. Kelly, Sr.)はスラム育ちの煉瓦職人であったが、上流階級の競技であるボート競技で頭角を現し、ボート関係者の嫌がらせにもめげず、オリンピックボート競技において1920年のアントワープオリンピックで2個の金メダルを獲得し一躍国民的英雄になった。そして1924年のパリオリンピックでも金メダルを1個獲得した。その後、彼は煉瓦製造会社を立ち上げ億万長者になった。母マーガレット(1898年 - 1990年)はドイツ系で元モデルであり大学講師だった。父方の叔父はピューリッツァー賞を受賞した劇作家のジョージ・ケリー(英語版)。兄は1956年のメルボルンオリンピックのオリンピックボート競技で銅メダルを獲得したジョン・ブレンダン・ケリー・ジュニア(1927年 - 1985年)。

少女時代はおとなしく、人前に姿を現すのが苦手な赤い頬の子供で、3人姉妹の中でも真ん中のグレースが1番不器用であったという。その一方、ダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示すようになる。
女優時代

ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。ニューヨークでモデルのアルバイトをしながら演技を学び、1949年に舞台『父』でブロードウェイデビューした。グレース自身は舞台女優を目指していたが、その後、舞台の出演中にハリウッドから誘いがかかり、1951年、22歳で映画に出演しデビュー(『Fourteen Hours』)。この作品を見た製作者のスタンリー・クレイマーが『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品でヒロインをつとめている。彼がグレース・ケリーを評して"Grace Kelly is a snow covered volcano"(雪に覆われた活火山)と述べた逸話はあまりにも有名。

1954年に『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1955年には俳優ビング・クロスビーの妻役でシリアスな演技を見せた『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。

非常に恋多き女性として有名で、ゲイリー・クーパークラーク・ゲーブルレイ・ミランドビング・クロスビーウィリアム・ホールデンオレグ・カッシーニジャン=ピエール・オーモンなどの、主に自分より年長の男性と浮名を流した。父親が彼女に冷淡な癖に、異性との交際には異常なほどうるさかったことも、背景にある。
結婚・公妃としてホワイトハウス訪問(1961年)

カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエ3世(在位1949年 - 2005年)と結婚。公妃となるため女優業を引退、1956年のミュージカル映画上流社会』が最後の作品となった。(1966年の麻薬撲滅キャンペーン映画『悪のシンフォニー』にはグレース妃として特別出演している)

挙式は、カトリックの伝統に沿い、グレースの出身地であるアメリカ合衆国で行われることも検討されたが、最終的にはモナコで行われることになった。

1956年1月5日、婚約を発表。同年4月18日モナコ大公宮殿にて法的な結婚式が行われた(The Civil Wedding)。翌4月19日、モナコ大聖堂(サン・ニコラ大聖堂)にて、カトリック式の挙式が行われた(The Cathedral Wedding)。これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。

結婚後は3人の子どもに恵まれ、公妃としても病院を設立したり、自身の名前を冠したバレエ学校を支援するなど精力的に活動した。

1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:75 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef