競走馬については「グレナディアガーズ (競走馬)」をご覧ください。
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パレードの際沿道に立つグレナディアガーズ兵士。
グレナディアガーズ(Grenadier Guards
)は、イングランドの近衛歩兵連隊(Foot Guards)。日本語では「擲弾兵近衛連隊」等と表記されることもある(#名称)。その起源は亡命中のイングランド王太子チャールズ(後のチャールズ2世)の下に護衛部隊が設立された1656年に遡り、以後ナポレオン戦争やクリミア戦争、第二次世界大戦、そしてイラク戦争に至るまで、イギリスが参戦した戦争の殆どに従軍している(#歴史)。Grenadier が擲弾兵を意味することから、「近衛擲弾兵連隊」或は「擲弾兵近衛連隊」等と訳されることも多いが、この「グレナディア」は兵種を示すものではなく、この部隊は「グレナディア」という名称の近衛歩兵連隊である。そのため、日本語では「グレナディア近衛歩兵連隊」、「グレナディア近衛連隊」、「近衛歩兵グレナディア連隊」等の表記も見られる。
ワーテルローの戦い(1815年)の功により「グレナディア」の名称が与えられる以前の連隊名は “First Guards” 或は “First Regiment of Foot Guards” であった。そして、同じ近衛歩兵連隊であるコールドストリームガーズとスコッツガーズが以前の”2nd Regiment of Foot Guards”、”3rd Regiment of Foot Guards”という名称を使用していないのに対し、グレナディアガーズは現在でも “The First or Grenadier Regiment of Foot Guards” の名称を併用している。従って、日本語で「第1近衛連隊」、「近衛第1連隊」、「近衛歩兵第1連隊」等と表記されている部隊もこの連隊である。
歴史
ロード・ウェントワース近衛歩兵連隊敗れて落ち延びるチャールズ2世イングランド王位に就くためにロッテルダムを出港するチャールズ2世の艦隊。
グレナディアガーズの起源は、1656年5月にネーデルラントのブルッヘ(現在はベルギー領)で編成された、「ロード・ウェントワース近衛歩兵連隊」(Lord Wentworth's Foot Guards
/Royal Regiment of Guards)に遡る。同連隊は、ピューリタン革命により大陸に亡命したチャールズ王太子(後のチャールズ2世)が第5代ウェントワース男爵トーマス・ウェントワース(Thomas Wentworth, 5th Baron Wentworth)に、自己の護衛隊として設立させた歩兵連隊であり、発足当初の人員は王太子に従って亡命していた王党派の男子から募られた。
近衛歩兵第一連隊チャールズ2世
1660年、王政復古に伴いロード・ウェントワース連隊はチャールズ2世と共にイギリスへ帰還した。そして同年には2番目の王立近衛歩兵連隊として”ジョン・ラッセル近衛歩兵連隊”((John Russell's Foot Guards)が設立されている。1665年にウェントワース卿が死去すると、両連隊は統合されて近衛歩兵第一連隊(First Regiment of Foot Guards)となった。当時の兵力は24個中隊であった。その後、1678年には擲弾兵中隊が設置されている。
近衛歩兵第一連隊はその後英国が行った戦争の殆どに参加しており、海上が主な戦場であった英蘭戦争には、第二及び第三次の戦争に海兵隊として参加している。
イギリスの歩兵連隊で海上戦闘を経験している部隊は珍しくない。イギリスに艦上勤務を専門とする歩兵部隊である海兵隊自体が無かった第一次英蘭戦争には、イングランド共和国に属していたコールドストリームガーズ(当時の名称は”モンクの歩兵連隊”(Monck's Regiment of Foote))が海上戦闘に加わっており、イギリスで初の海兵連隊である”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”(Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot)が、1664年にコールドストリームガーズ(当時の名称は”ロードジェネラル近衛歩兵連隊”(The Lord General's Regiment of Foot Guards))から将兵を抽出して編成された後も、歩兵部隊が海上任務に就くことが度々あった。更に時代が下ったナポレオン戦争でも、第2及び69歩兵連隊[1]が艦隊に配属されている。また逆に、第3、第30、第31、第32の4歩兵連隊[1]は何れも海兵隊から一般の歩兵連隊に改編された部隊である。
そして、1680年には王政復古後のイギリス陸軍にとって初めての海外遠征であるタンジールにも派遣された。
第二次英蘭戦争の四日海戦(Four Days Battle)
マールバラ公
スペイン継承戦争に於いては、初代マールバラ公ジョン・チャーチルの下で戦い、ラミイの戦い、アウデナールデの戦い及びマルプラケの戦いの勝利に貢献した。イギリス軍総司令官であるマールバラ公は、1667年に近衛歩兵第一連隊キングス中隊(King's Company)の少尉として軍歴をスタートさせた人物であり、当時は連隊長も兼ねていた。
ラミイの戦い
マルプラケの戦い
ナポレオン戦争ワーテルローの戦いのウェリントン公
ナポレオン戦争では、近衛歩兵第一連隊は1893年にオランダへ2度派遣された。その後、1808年からはスペインへ派遣されてサー・ジョン・ムーア(John Moore)の下で半島戦争を戦った。そしてサー・ジョンの死後は、後に初代ウェリントン公爵にしてグレナディアガーズ連隊長となるアーサー・ウェルズリー将軍が後任となった。
サー・ジョン・ムーア
ワーテルローの戦いメイトランド将軍
ワーテルローの戦いの前哨戦である、カトル・ブラの戦い(Battle of Quatre Bras)に於ては第3大隊が大きな損害を受けた。1815年6月18日は早朝から、同盟軍右翼の防御拠点であるウーグモン館(Chateau d'Hougoumont)にナポレオン軍の激しい攻撃が加えられていた。そこを守っていたのは近衛歩兵第二連隊(コールドストリームガーズ)のジェームス・マクダネル中佐(James Macdonnell)が指揮する部隊であった。この守備隊には、近衛歩兵第二及び第三連隊(後のスコッツガーズ)の軽歩兵中隊と共に近衛歩兵第一連隊の軽歩兵中隊も分派されていた。そして、戦いが終わるまでこの城館を守り抜いた。
夕刻、同盟軍中央の防御拠点であるル・エイ・サント(La Haye Sainte)が陥落し、ナポレオンは切り札である皇帝近衛軍にウーグモン館とル・エイ・サントの間へ最後の攻撃を命じた。その時皇帝近衛軍の攻撃目標に位置していた第1旅団(メイトランド旅団)は、近衛歩兵第一連隊の第2及び第3大隊で編成された部隊であり、指揮官のペレグリン・メイトランド将軍(Peregrine Maitland)は同連隊の少尉から軍歴をスタートさせた人物であった。