グレッグ・ポポヴィッチ
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グレッグ・ポポヴィッチ
Gregg Popovich
2015年、ホワイトハウスでのポポヴィッチ
サンアントニオ・スパーズ HC
役職ヘッドコーチ
兼務CEO
所属リーグNBA
基本情報
愛称"Coach Pop"
国籍 アメリカ合衆国
生年月日 (1949-01-28) 1949年1月28日(75歳)
出身地 インディアナ州イーストシカゴ
身長(現役時)187cm (6 ft 2 in)
体重(現役時)104kg (229 lb)
キャリア情報
高校メリルビル高校
大学空軍士官学校
ポジションガード
指導者期間1973?現在
経歴
コーチ時代:
1988-1992サンアントニオ・スパーズ(AC)
1992-1994ゴールデンステート・ウォリアーズ(AC)
1996-現在サンアントニオ・スパーズ
2016-2021 アメリカ合衆国
エグゼクティブ時代:
1994-1996サンアントニオ・スパーズ(GM)
受賞歴


NBAチャンピオン (1999, 2003, 2005,2007, 2014)

NBAコーチオブ・ザ・イヤー (2003, 2012, 2014)

NBAオールスターゲームヘッドコーチ (2005, 2011, 2013, 2016)

獲得メダル

男子バスケットボール
アメリカ合衆国
オリンピック
2021 東京


グレッグ・チャールズ・ポポヴィッチ(Gregg Charles Popovich, 1949年1月28日 - )は、アメリカ合衆国の北米プロバスケットボールリーグNBAの指導者。インディアナ州イーストシカゴ出身。1996年からヘッドコーチとしてサンアントニオ・スパーズを率い、5度の優勝に導き、NBA歴代最多勝利数を記録している名将として知られる。愛称は"Pop"。
経歴
空軍

父がセルビアの降下兵だったポポヴィッチは、アメリカ空軍士官学校に入隊し、ソビエト研究を専攻、1970年に卒業した。士官候補生時代には士官学校のバスケットボールチームで4シーズンプレイし、最終学年の時にはキャプテンとしてチームを率いた。

卒業後5年間の兵役に就いたポポヴィッチはヨーロッパに赴き、空軍のチーム(the U.S. Armed Forces Team)と共に東ヨーロッパやソビエトのチームと試合を行っている。チームのキャプテンとなったポポヴィッチは、1972年、チームをアマチュア・アスレチック・ユニオンのチャンピオンシップに導き、この時のプレイが評価され、ポポヴィッチは士官学校チームのアシスタントコーチに就き、コーチとしてのキャリアを歩み始めた。当時の士官学校チームのヘッドコーチだったハンク・イーガンは、後にサンアントニオ・スパーズのヘッドコーチに就いたポポヴィッチのもとでアシスタントコーチを務めることになる。アシスタントコーチを務める傍ら、ポポヴィッチはデンバー大学に通い、体育とスポーツ科学の修士号を取得している。
ラリー・ブラウンとの出会い

1979年にはクレアモント大学男子バスケットボールチームのヘッドコーチに就任。この頃にカンザス大学のヘッドコーチだったラリー・ブラウンと親交を深め、1985-86シーズンには一時クレアモント大学を離れ、ラリー・ブラウンのアシスタントコーチを務めながら彼のコーチ術を学んだ。
NBAへ

1988年、ポポヴィッチはサンアントニオ・スパーズのヘッドコーチに就任したラリー・ブラウンにアシスタントコーチとして招かれ、NBAでのキャリアをスタートさせた。この時、同じくアシスタントコーチとして、現GMのR・C・ビュフォードがスパーズに加入している。当時低迷していたスパーズはブラウン体制の2年目の1989-90シーズンには大きく躍進し、ブラウンとポポヴィッチは見事にチームの再建を果たした。1991-92シーズン中にブラウンがチームを離れたため、ポポヴィッチも翌1992-93シーズンからはゴールデンステート・ウォリアーズに移り、こちらも名将の誉れ高いドン・ネルソンのもとでアシスタントコーチを務めた。
スパーズGM

1994年、ポポヴィッチはスパーズのジェネラル・マネージャーに就任する。ポポヴィッチに求められたものはラリー・ブラウンの退任後、成長が横ばい状態にあるスパーズを優勝できるチームにすることだった。スパーズは新たにボブ・ヒルをヘッドコーチに迎え、さらにポポヴィッチがウォリアーズのアシスタントコーチをしていた頃から目を付けていたポイントガードエイブリー・ジョンソンと契約。この年、現在のGMであるR・C・ビュフォードをスカウトとして、後にアシスタントコーチとして長年ポポビッチを支え、2013年にアトランタ・ホークスのヘッドコーチになったマイク・ビューデンホルツァーをビデオコーディネーターとして雇い入れている。

ポポヴィッチがGMに就いて1年目の1994-95シーズンにスパーズは62勝20敗と大きく成績を伸ばし、翌1995-96シーズンはチームに不和をもたらしていたデニス・ロッドマンを殆ど無償でシカゴ・ブルズにトレードし放出し (見返りでウィル・パデューを獲得) 、大ベテランの域に達していたドミニク・ウィルキンスを獲得するなどのチーム改革を行い、59勝23敗の好成績を収めた。しかし優勝どころかファイナルにも出場することができず、さらに1996-97シーズンには大黒柱のデビッド・ロビンソンがシーズンの大半を欠場したため、チームはシーズン序盤から大きく負け越した。業を煮やしたポポヴィッチはボブ・ヒルをヘッドコーチから解任し、自らヘッドコーチに就任した。
スパーズHC

ヘッドコーチに就任したものの、デビッド・ロビンソンの不在は如何ともし難く、スパーズはこのシーズン20勝62敗という散々な内容だったが、この結果がスパーズとポポヴィッチに大きな幸運をもたらした。それは1997年のNBAドラフト1位指名権の獲得だった。ポポヴィッチは迷うことなくこの1位指名権をウェイク・フォレスト大学のビッグマン、ティム・ダンカンに行使した。

デビッド・ロビンソンとティム・ダンカンのインサイドコンビはツインタワーと呼ばれ、他チームの脅威となった。またロビンソンは自らダンカンのサポートに回り、以後ポポヴィッチはダンカンを中心としたチーム造りを進めていく。そしてポポヴィッチはダンカンと共に、スパーズの栄光の時代を築き上げていくことになる。

 1998-99シーズン は、ダンカンにロビンソン、エイブリー・ジョンソン、ショーン・エリオット、更に優勝経験者のマリオ・エリースティーブ・カーを獲得するなど、充実したメンバーが揃ったスパーズは、ダンカン獲得から2年目にして、早くも大きな成果をあげた。スパーズはプレーオフを勝ち抜き、ついにチーム史上初となるファイナルに進出。そしてニューヨーク・ニックスを4勝1敗で破り、念願の優勝を果たした。しかしこのシーズンはロックアウトの影響でレギュラーシーズンは50試合しか行われず、スパーズの優勝は「本当の優勝ではない」という声もあがった。


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