グレタ・ガルボ
Greta Garbo
『ニノチカ』宣伝用写真(1939年撮影)
本名Greta Lovisa Gustafsson
生年月日 (1905-09-18) 1905年9月18日
没年月日 (1990-04-15) 1990年4月15日(84歳没)
出生地 スウェーデン・ストックホルム
死没地 アメリカ合衆国・ニューヨーク
国籍 スウェーデン
アメリカ合衆国
職業女優
ジャンル映画
活動期間1922年 - 1941年
公式サイトwww.gretagarbo.com
受賞
アカデミー賞
名誉賞
1954年 数々の映画での「輝かしく忘れがたい演技」に対して
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演女優賞
1935年『アンナ・カレニナ』
1936年『椿姫』
AFI賞
映画スターベスト100
1999年 女優部門第5位
その他の賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
主演女優賞
1935年『アンナ・カレニナ』
1936年『椿姫』
1941年『奥様は顔が二つ』
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グレタ・ガルボ(Greta Garbo、1905年9月18日 - 1990年4月15日)は、スウェーデン生まれのハリウッド映画女優。本名はグレータ・ルヴィーサ・グスタフソン(Greta Lovisa Gustafsson)で、ハリウッドのサイレント映画期ならびにトーキー映画初期の伝説的スターである。3度のアカデミー主演女優賞へのノミネート経験があり、1954年に「輝かしく忘れがたい演技」に対してアカデミー名誉賞が贈られている。また、1935年の『アンナ・カレニナ』と1936年の『椿姫』で、ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞を受賞している。アメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選定した映画スターベスト100の女優部門では、キャサリン・ヘプバーン、ベティ・デイヴィス、オードリー・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンに続く第5位にランクされた。
ガルボはノーベル文学賞受賞作家セルマ・ラーゲルレーヴ原作の1924年のスウェーデン映画 『イエスタ・ベルリングの伝説』(英語版)の準主役で、女優としての活動を始めた。この作品でのガルボの演技が、アメリカの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) の副社長ルイス・B・メイヤーに認められ、1925年にガルボはハリウッドへ招かれた。翌1926年にハリウッドでの1作目となるサイレント映画『イバニエスの激流』で注目を集め、3作目の『肉体と悪魔』(1926年)で国際的な映画女優としての地位を築いた[1]。
1930年の映画『アンナ・クリスティ』が、ガルボが出演した初のトーキー映画で、制作元のMGMはこの作品の宣伝に「ガルボが話す! (Garbo talks!)」というキャッチフレーズを使用した。同じ年の1930年には『ロマンス』も公開されている。ガルボはこの両作品でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。当時のアカデミー賞俳優部門の規定では、同一年度に複数の映画に出演していたとしてもノミネートされる賞は一つだけだった[2]。大衆からのガルボの人気は高く、1932年にはガルボが映画会社との契約内容を主導したり、出演作品を自ら選ぶことが増えていった。ガルボの代表作として1936年の『椿姫』で演じた高級娼婦マルグリット・ゴーティエを挙げる専門家や評論家が多い。このマルグリット役でガルボは2度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。その後、1939年のコメディ映画『ニノチカ』で3度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされ、1941年の『奥様は顔が二つ』を最後に映画界から引退した。
引退した1941年にガルボはまだ35歳だった。その後もガルボのもとには多くの映画出演依頼が舞い込んできたが、ガルボが映画界に復帰することはなかった。引退後は公の場所に姿を見せることなく、隠棲生活のうちに死去した。
幼少期ガルボの生誕地であるセーデルマルムの通りに飾られているガルボの胸像。
ガルボはストックホルムのセーデルマルム(英語版)に生まれ、グレタ・ロヴィーサ・グスタフソンと名づけられた。父親のカール・アルフレート・グスタフソン(1871年 - 1920年)は肉体労働者で、母親のアンナ・ロヴィーサ(1872年 - 1944年)は主婦だったが後にジャム工場で働くようになった[3][4]。ガルボは三人兄妹の末子で、兄はスヴェン・アルフレート(1898年 - 1967年)、姉はアルヴァ・マリア(1903年 - 1926年)である[5]。
カール・アルフレートは、アンネビー(英語版) からストックホルムを訪れていたときにアンナと出会った。カール・アルフレートは独り立ちするために故郷からストックホルムへと移住し、道路清掃、食料雑貨店、工場、肉屋の店員など、さまざまな職で生計を立てていた[6]。アンナはヘーグビー(英語版)の出身で、カール・アルフレートと結婚したのはストックホルムに出てきて間もなくのことだった[7][8]。二人の暮らしは貧しく、下町の給湯設備のない3室のアパートに住んでいた。当時ストックホルムで一番貧しい人々が住んでいたこのスラム街で、ガルボら三兄妹は育てられた[9]。
灰色一色の長い冬の夜でした。父は部屋の片隅に座り込んで、新聞の人物写真に落書きをしており、母は鼻歌を歌いながらぼろぼろの古い衣服を繕っていました。私たち子供は声を潜めて雑談するか、たんに黙って座っていることしかできませんでした。まるで身の回りに危険が迫っているかのように感じられ、私たちは不安で一杯だったのです。このような夜は神経質な少女にとって忘れられないものでした。私たちが育った家やアパートはどれも似たようなもので、ひどく劣悪な環境で暮らしていたのです[10]。
幼いガルボは内気で夢見がちで[11]、学校が嫌いな[12][13]一人遊びを好む少女だった[14]。しかしながら、ガルボは豊かな想像力と天性の指導力を持った少女でもあり[15]、幼少のころから演劇に興味を持つようになっていった[16]。