グレゴワール・カイバンダ
Gregoire Kayibanda
グレゴワール・カイバンダ(1962年撮影)
ルワンダ共和国
初代 大統領
任期1962年7月1日 – 1973年7月5日
ルアンダ=ウルンディ
第2代 自治政府代表
任期1961年10月26日 – 1962年7月1日
出生1924年5月1日
ルアンダ=ウルンディ(現 ルワンダ)、キガリ郊外県タレ
死去 (1976-12-15) 1976年12月15日(52歳没)
ルワンダ、ギタラマ県
政党フツ解放運動党
グレゴワール・カイバンダ(フランス語: Gregoire Kayibanda, 1924年5月1日 - 1976年12月15日)は、ルワンダの政治家。フツ族である。
同国大統領(初代)、ルアンダ=ウルンディ自治政府首長(第2代)を歴任した。1973年にクーデターにより失脚、軍事法廷で死刑判決を受けたがその後減刑され、軟禁状態に置かれ、最後には餓死させられたとされる。 1924年に生まれた[1]。父親はコンゴ出身のシ、母親がフツだったと言われている[2]。ニャキバンダ(Nyakibanda、ブタレの西にある町の名前)で神学校生になり[1][2]、卒業後、キガリのクラセ学院(Institut Clasee)で小学校教師の職を得た[2]。ここで、1948年から1952年まで教員を務めた[1]。この間の1950年に、ベルギーのキリスト教社会党との関係でベルギーに渡航した(1957年にも再度ベルギーへ渡航)[3]。 1952年にカブガイの神学校に戻り、新聞L'Ami(カトリックの機関紙)の編集に携わった[4]。L'Amiには、1952年から1956年まで関係した[1]。また、ベルギー・コンゴ友好協会 (Amities Belgo-Congolaises)[注 1][5]で秘書になった。 その後、スイス人[1]でカトリックのルワンダ教区大司教ペロダン(Perraudin)の個人秘書になり[6][5]、1955年に、一般信徒のままでキニャマテカ(Kinyamateka)[注 2]の編集に、翌1956年には主筆になった[6][注 3]。同年12月に教会はTRAFIPRO(Traveil, Fidelite, Progres、「仕事、忠誠、発展」の意味)という共同体を作り、カイバンダはその理事会の代表になった[6]。 翌1957年6月[8][9]、キニャマテカの編集とTRAFIPROの代表を基礎にして、カイバンダは「フツ社会運動」[5](Mouvement Social Muhutu、略称はMSM)という文化団体を作りフツ運動に乗り出した[6]。同年にはカイバンダはベルギーへ再渡航し、1958年から1959年までカトリック教会の招きでブリュッセルに滞在、ジャーナリズムを学んだ[3]。 ルワンダのベルギーからの独立運動に参加し、頭角を現す。多数派フツ族として、少数派ツチ族の王制に反発し、政治家へ転向。1959年10月9日[5]、フツ解放運動党(パルメフツ)を結成した[10]。1961年1月28日[5]カイバンダは、3,125人のブルグメストル(市長に相当する[11])[注 4]と地方自治体の議員をギタラマに集め緊急集会を開き、発声投票によって「民主的主権国家ルワンダ共和国」の樹立を宣言した[13]。これは「合法的なクーデター」だと言われている[13]。 1962年7月1日、ルワンダは正式に独立した[5][14]。独立後のルワンダは形式上は多党制の民主主義国家であった[15]。しかし、実質的にはパルメフツによる一党独裁制の人種差別国家だった[15]。 同年の大統領選でカイバンダは大統領に当選した。カイバンダは、意図的に人前に現れず、権威主義的で秘密主義的な態度をとった[16]。これはルワンダ独立以前のムワミと同じ政治手法に則っている[16]。カイバンダは行政の最下位レベルの任命や指名に至るまで全てを自分の責任で行った[16]。
生涯
政治家以前
大統領