グレイハウンド_(バス)
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グレイハウンドラインズ
MCI DL3グレイハウンドカナダ
Prevost X3-45

グレイハウンド(Greyhound Lines, Inc.)は、アメリカ合衆国で最大規模のバス会社である。また、同社が運行する長距離バスそのものを指すこともある。アメリカ合衆国全土(アラスカ州ハワイ州を除く)とカナダ、及びメキシコの一部の都市を結ぶ膨大な数の路線を持ち、合衆国内においてだけでも3,100路線以上が存在する。

1913年ミネソタ州ヒビングにて設立され、1926年にグレイハウンド・コーポレーションとなる。社名、およびロゴマークはドッグレースにおいて最も速い種であるグレイハウンドに由来する。

2021年11月にドイツ都市間バス会社フリックスモビリティが7,800万ドルで買収[1][2][3][4][5]。現在はテキサス州ダラスに本社を構えている。
沿革
黎明期

今日のグレイハウンド社があるのは、100年に渡る経営拡大と既得権益獲得の成果といえる。本社となった場所は現在のダラスに至るまでにミネソタ州ヒビング、ダルースミネアポリスイリノイ州シカゴアリゾナ州フェニックスと遷移してきた。

1920年代から1930年代にかけての短期間で急速に成長したため、ICC州際通商委員会は独立している小さい企業が彼らの競争相手となるようにNational Trailways Bus System(NTBS 全米路線バスシステム)を構築した。グレイハウンド社と異なり、約100の協会からなるこれらNTBSの関連企業は、グレイハウンド社の大いなる競争相手になった。
グレイハウンド社の設立現役当時のカラーリングで保存されているGMC PD 4151 シルバーサイド(1948年製)1965年秋頃のオレゴン州セイラムのターミナル
開通したインターステイツ5号線の北行き初運行便と乗車を待つ旅客
車両はGMC PD4106

1887年スウェーデンで生まれたカール・ウィックマンはアメリカに移住した後、1913年ミネソタ州ヒビングとアリス間を15セントで運行するバスサービスを始めた。1915年にヒビングとダルース間で同じようなサービスを展開していたラルフ・ボーガンと共同でメサバ交通会社(Mesaba Transportation Company)を設立、初年度において8千ドルの利益をあげた。

第一次世界大戦が終わる頃、ウィックマンは18台のバスを所有し、その年収は4万ドルに達していた。1922年になるとオルヴィル・シーザーの経営するホワイト・バス・ラインズ社 ( White Bus Lines ) と事業を統合し、さらに1926年にはアメリカ西海岸の2つのバス事業であったピックウィック・ラインズ ( Pickwick Lines ) とパイオニア・イエローウェイ・システム ( Pioneer Yelloway System ) との合意に達し規模を広げた。

ウィックマンのバス会社は「グレイハウンド・ラインズ」として知られるようになり、社長であった彼は事業の拡大を続け、1927年にはカリフォルニアからニューヨークまでの大陸横断旅行が出来るほどにまでなっていた。1930年、社名を「グレイハウンド・コーポレーション」に変更する。

ウィックマンのビジネスは、世界恐慌を迎えた1931年の時点で100万ドル以上の負債があったが、1933年シカゴ万博の開催によって旅客数は劇的に増加し、グレイハウンド社は再び繁栄することになる。 1935年には利益は800万ドルに達していた。第二次世界大戦の開戦時点では、グレイハウンド社は4,750箇所のバスターミナルと1万人近い従業員を抱えるまでになっていた。

1946年にウィックマンは社長を退き、後任にはこれまでのパートナーであるオルヴィル・シーザーが就くこととなった。1954年、カール・ウィックマンは67歳でその生涯を閉じた。

第二次世界大戦後、州間高速道路網が広まった1956年になると、米国内での自動車(自家用車)の所有と観光業の多様化、さらには都市間輸送の空路への移行などもあり、鉄道など一般的な公共輸送が下落したのと同様に、グレイハウンドの利用者とバス路線は段々衰退していくようになる。 グレイハウンド社は時代の情勢を見ながら様々な事業の展開を行い、1970年代には巨大な多角化経営企業となり、アーマー精肉会社(Armour & Co.)からダイアル石鹸会社の全ての権利、トラベラーズ・エクスプレスの為替事業、MCIバス製造会社 ( Motor Coach Industries ) 、さらには航空機の貸し出しまで手がけるようになっていた。

1984年後半に、グレイハウンド社では、オハイオ州ザネスビルで起こった死亡事故をきっかけとした大規模な運転手によるストライキが発生した。3年後に再びストライキが発生した結果、グレイハウンド社は当時NTBSの幹部役員でもあったフレッド・カレイによって分社化され、グレイハウンドのバス事業は独立することとなった。元の会社はダイアル会社と名称変更された。
分割

1987年、カレイによる新たな指揮の下でグレイハウンド社はまもなく、最大の競合相手でありNTBSの会員でもあったコンチネンタル・トレイルウェイズ社 ( Continental Trailways ) の買収を行ったことにより、バス事業は競合相手がいなくなったともいえ、NTBSの2つの企業であったカロライナ・コーチ社 ( Carolina Coach ) 及びサウスイースタン・トレイルウェイズ社 ( Southeastern Trailways ) とバスの運行などについて協議を行ったが、これらの企業と多くの小規模の企業は事業の撤退を余儀なくされた。

それから3年後に、新たな賃金ストライキが起こることになる。これは多角化経営から離れたことによる企業の体力が低くなったことと、労働法違反によるものであった。このことが元となり、1990年代前半にグレイハウンド社は倒産することになる。同時期にサウスウエスト航空など低価格の航空会社の台頭により、長距離バス事業はこれら航空会社との低価格路線による競争を強いられることになる。

1997年にグレイハウンド社は、NTBS最大の企業であったカロライナ・トレイルウェイズ社 ( Carolina Trailways ) を買収した。現在もカロライナ・トレイルウェイズの名称で運行しているが、それ以外のNTBS創成期の企業のいくつかはグレイハウンド社と歩調を併せ、通常運行の路線やチャーター便やツアーを廃止したり、事業そのものを廃業したりした。
レイドロー社による経営と2度目の倒産

1998年カナダオンタリオ州ハミルトンを基盤としている輸送事業の複合企業であったレイドロー社がグレイハウンド社(アメリカ合衆国)、グレイハウンド・カナダ、カロライナ・トレイルウェイズとその他関係各社の経営権を取得した。しかしグレイハウンドへの多額の投資や多角化経営への投資などにより多額の損失を被ったレイドロー社は2001年6月、連邦倒産法第11章適用による法的倒産手続を申請することとなった。

イリノイ州ネイパービルを拠点にするレイドロー・インターナショナル社は2003年2月10日ニューヨーク証券取引所にレイドロー社の株を取得し、2003年6月23日にレイドロー社の再生に関わることを明らかにした。
ファーストグループ傘下2006年、アトランタのバスターミナル内の様子

グレイハウンド社は米国北西部、および北中央部における主要路線の運行本数の削減といくつかの長距離路線の削減を2004年に行った[6]シカゴシアトルを結ぶ幹線でもそれは例外ではなく、人口密度が著しく低く、乗降客数の少ないノースダコタ州ファーゴモンタナ州ビリングス間が部分廃線となり、地域密着型の提携バス会社に引き継がれた[7]


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