グレイディ・サイズモア
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グレイディ・サイズモア
Grady Sizemoreシカゴ・ホワイトソックス コーチ
クリーブランド・インディアンスでの現役時代
(2011年7月14日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ワシントン州シアトル
生年月日 (1982-08-02) 1982年8月2日(41歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り2000年 MLBドラフト3巡目(全体75位)
初出場2004年7月21日
最終出場2015年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


カスケード高等学校

クリーブランド・インディアンス (2004 - 2011)

ボストン・レッドソックス (2014)

フィラデルフィア・フィリーズ (2014 - 2015)

タンパベイ・レイズ (2015)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

グレイディ・サイズモア3世(Grady Sizemore III、1982年8月2日 - )は、アメリカ合衆国ワシントン州シアトル出身の元プロ野球選手外野手)。左投左打。
経歴
プロ入り前

ワシントン州シアトルで1982年8月2日、カレッジベースボールで活躍した黒人の父グレイディJr.と白人の母の間に誕生。父はボルチモア・オリオールズの大ファンで、特にカル・リプケン・ジュニアエディ・マレーがお気に入りだった[1]。その父に買ってもらったバットを、1歳半になったころのサイズモアが振ってみたところ、そのスイングはあまりにも幼児離れしたものだったという[2]

ワシントン州内にあるカスケード高校に進学したサイズモアは、野球のほかアメリカンフットボールバスケットボールなど様々なスポーツで活躍する。特にフットボールではラッシングヤードやインターセプト数で同校の記録を塗り替える活躍だった。そのためアリゾナ州立大学クレムゾン大学カリフォルニア大学ワシントン州立大学など複数の大学がサイズモアに奨学金の申し出を行った[3]。その中からサイズモアは、野球とフットボールの奨学生としてワシントン大学へ進学することに決めた。
プロ入りとエクスポズ時代

2000年MLBドラフト3巡目(全体75位)でモントリオール・エクスポズが、高校を卒業したサイズモアを指名。サイズモア自身ほとんど考えもしなかったプロからの指名で[4]、有望な新人という扱いでは決してなかったが[2]、入団・プロ入りを決意した。
インディアンス時代

2002年6月にバートロ・コローンらとのトレードで、リー・スティーブンスブランドン・フィリップスクリフ・リーの3選手と共にインディアンスへ移籍。

2004年7月21日にメジャーデビューした。

2005年には、フアン・ゴンザレスの怪我もあって中堅手のレギュラーに定着。4月22日シアトル・マリナーズ戦で故郷シアトルに凱旋を果たし、家族や友人らの前でプレイするという思い出深い場面を迎えている[4]。その後も活躍し、シーズン成績は打率.289・22本塁打・81打点・22盗塁を記録した他、ロベルト・アロマー以来球団史上2人目となる20二塁打・10三塁打・20本塁打・20盗塁を達成した[5]シカゴ・ホワイトソックス監督のオジー・ギーエンはサイズモアを高く評価しており、シーズン最終戦でインディアンスと対戦し勝利した後、フィールド上にいたサイズモアと握手し彼を賞賛した[6]

2006年シーズン開幕直前の3月29日に、年俸調停権取得前のサイズモアと6年2,345万ドル(7年目の2012年は球団オプション)で契約を延長した[7]。その年のレギュラーシーズンでは全162試合に出場し、53二塁打・11三塁打・28本塁打・22盗塁を記録。50二塁打・10三塁打・20本塁打・20盗塁の全てを1シーズンで達成したのは、チャック・クライン以来74年ぶりMLB史上2人目のことであった[8]。また長打数は92で、これは本塁打王のデビッド・オルティーズレッドソックス)や長打率リーグトップのトラビス・ハフナー(インディアンス)を抑えてリーグ1位である[8]。7月にはオールスターゲーム初選出も果たした。インディアンス時代

2007年は、開幕戦から6試合で4本塁打を記録する好調なスタート[9]。前年に続き全162試合に出場し、打率は前年より下がったものの、四球が初めて100を超えたことで出塁率は前年を上回り、また3年連続で20本塁打・20盗塁を記録。シーズン終了後には、自身初のゴールドグラブ賞を受賞した。2008年は、開幕から1か月程経った4月26日ニューヨーク・ヤンキース戦で右足首を痛め、翌日の試合を欠場。この時点で連続試合出場は、継続中のものとしては最長の382まで伸びていたが、2005年以来の欠場でこれが止まった[10]。それでも2試合欠場後の29日から復帰を果たすと本塁打を量産し、7月のオールスターでは試合前日に行われるホームランダービーにも出場。8月26日には自身初のシーズン30本塁打・30盗塁を達成した。シーズン終了後にはゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞を同時受賞している。

このように過去4年にわたって活躍を続けていたが、2009年は一転して公私ともに不調の年を送ることになる。まず、シーズン開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシックアメリカ合衆国代表として参加する予定だったが、大会直前に左足付け根を痛めて辞退した[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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