グループ・サウンズ
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グループ・サウンズのひとつ ザ・スパイダース

グループ・サウンズ(またはグループ・サウンド、和製英語:group sounds)は、エレクトリック・ギターエレキ・ベースなどの電気楽器を中心に数人で編成される、演奏および歌唱を行うグループ。欧米におけるベンチャーズビートルズローリング・ストーンズなどのロック・グループの影響を受けたとされ、1967年昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけて日本で大流行した。略称:GS。
歴史

一般的に「グループ・サウンズ」といえば1960年代後半、ジャズ喫茶ゴーゴー喫茶を中心に活動したロック・グループなどを指している。グループ・サウンズに共通することは、多くのグループがリード・ヴォーカル+エレクトリック・ギター+エレクトリックベースドラムスといった編成をとっていた。例外的に、初期のザ・ハプニングス・フォーなどのギターのいないGS、初期シャープ・ホークスのような、ヴォーカリストの集団で、バックにプロのエレキバンドを従えたコーラスGSも存在していた。1965年5月、ビートルズなどイギリスのロックバンドの人気が日本にも広まる中で田辺昭知ザ・スパイダースが『フリフリ』を発売、この曲が最初のグループ・サウンズのレコードとされている[注 1]1966年3月にはジャッキー吉川とブルー・コメッツが「青い瞳[1]を発表した。

この年、6月30日からのビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューするようになる。このことを受け、若者向け芸能雑誌「週刊明星」がこれらのグループや音楽を総括して「グループ・サウンズ」または「グループ・サウンド」と呼び始めたことをきっかけに広まった呼称とみられている[2]。起源にはいくつかの説がある。1965年寺内タケシが当時のブルージーンズのジャンルを記者から聞かれた際の「グループ・サウンドだ」「でもそれだと単数形だからグループ・サウンズのほうがいい」と言ったという説などがある[注 2]。ブルージーンズはベンチャーズの影響を受けていた。ブルー・ジーンズ、ブルー・コメッツやザ・スパイダースのように、ビートルズ来日公演以前からプロのバンドとして活動していたもの、ゴールデン・カップスやザ・テンプターズのようにブルース・ロックを演奏していたバンド[3]ザ・タイガースらのように「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」に影響を受けた学生が仲間内で結成したアマチュア出身のバンドもいた。60年代GSと言っても、各グループの音楽性には、かなりのばらつきがあった。

当時の音楽業界はまだまだ古い体制で、芸能プロや各レコード会社は職業作家であるプロの作曲家作詞家[注 3]GSの曲を依頼したがった。そのため、コンサートリサイタルなどでは自分たちの好きな洋楽ロック等を中心に演奏していたテンプターズ、ゴールデン・カップスらは反発を感じていた。ゴールデン・カップスのように、ライブでは「長い髪の少女」のようなシングル曲は絶対に演奏しないというポリシーを貫いたグループもいた[注 4]

GSブーム初期にはジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダースが人気グループとなり[4]、GSブームの中期から後期にはザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックスが人気になった[5]

60年代当時の日本では、長髪やエレキギターといった要素は不良、若者の非行に結びつけられ、一般社会からの風当たりは非常に強かった。そのため、グループ・サウンズのコンサートを観に行った高校生には停学もしくは退学処分を下される学校もあった。また、コンサートに行くこと自体を禁止する中学校・高校が続出した。

1967年11月に行われたザ・タイガースの奈良あやめ池での野外コンサートで、ファンの転倒事故が発生、重軽傷者を出した[6]。そのためNHKは、『歌のグランド・ショー』で既に収録済みだったザ・タイガースの出演部分をカットし、以後、短髪だったジャッキー吉川とブルー・コメッツを例外に、長髪系のグループ・サウンズの出入りを禁止した[6][注 5]。また1968年5月にはザ・タイガースの女子高生ファンによるコンサート入場券偽造事件も起きた。

オックスがステージ上で行った失神パフォーマンスにより実際に失神する少女達が続出し、これを契機にPTAや教育関係者の反感を買うこととなった。そして事故防止のためグループ・サウンズのバンドにはコンサート会場を提供しないという劇場や自治体があらわれた[注 6]。「レコード・コレクターズ」の特集では、メンバーによる自作自演を志向したGSグループに対し、プロの歌謡曲作家を起用させたいレコード会社が、なかにし礼村井邦彦筒美京平鈴木邦彦すぎやまこういち等の作詞家、作曲家を雇った[7]ため、洋楽ロックのカバーなどをやりたくてもやれなかったという状況が採り上げられている。

1960年代にはピンキー・チックス、松田智加子とTokyo Pink Pearls(東京ピンク・パールズ)など、いくつかのプロの女性GS(事務所に所属)が存在した。女性GSのメンバーの中には、1970年代後半にディスコに転向した者も少数いた。後にサーフ・ロック風のゴールデンハーフもデビューしている。彼女らの「太陽の彼方」はアストロノーツのカバーだった。エミー・ジャクソンは早すぎた一人GSだったが、GS全盛期には中村晃子黛ジュン青山ミチ小山ルミ泉アキらの「一人GS」もデビューした[8]。中村晃子の「虹色の湖」、黛ジュンの「天使の誘惑」「恋のハレルヤ」などは、大ヒットになった。黛ジュンの「土曜の夜、何かが起きる」は女性版GSの代表曲である。また、男性版一人GSの荒木一郎はヒット曲のほかに、「僕は君と一緒にロックランドにいるのだ」の意欲作をリリースした。GSブーム終焉から20年ほどたった1990年代に注目されるようになったのが、「カルトGS」である。ザ・レンジャーズの「赤く赤くハートが」[9]、ザ・ジェノバの「サハリンの灯は消えず」、ザ・ボルテージの「イッツ・ア・マンズ・マンズ・ワールド」[10]などは、カルトGSの代表的な作品例としてあげられている。

1968年夏頃にはGSブームはピークを迎え、100を超えるグループがレコードデビューを果たすも[注 7]1969年春にはザ・タイガース、ザ・カーナビーツ、オックスなどの人気グループから主要メンバーが相次いで脱退し、またジャッキー吉川とブルー・コメッツは、ムード歌謡路線の曲まで録音した。70年頃には完全にGSブームは終焉を迎え、1971年に入るとほとんどのグループが解散・自然消滅した[注 8]。ブームは5年ほどだった[11]

その後人気グループ・サウンズに於いてリード・ヴォーカルを務めていた人物の中からは、グループ解散後も歌手ミュージシャン俳優、またタレントとして芸能界の第一線で活躍し続けている人物も多い。また他の楽器パートを務めていた人物にも、俳優作曲家スタジオミュージシャン音楽プロデューサー芸能事務所経営者等として、芸能界の重要人物へと納まっている者が何人か存在する。


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