グルカ戦争
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グルカ戦争
Gurkha War

バルバドラ・シンハ・クンワル、ネパール軍の将の一人

1814年 - 1816年
場所ネパール王国
結果 イギリスの勝利
スガウリ条約の締結

衝突した勢力
イギリス東インド会社
ガルワール王国
パティヤーラー藩王国 ネパール王国
指揮官
フランシス・ロードン・ヘイスティングズ
デーヴィッド・オクタロニー
ロロ・ジレスピー 
ベネット・マーレイ
ジョン・サリヴァン・ウッド
ガブリエル・マーティンデルビムセン・タパ
アマル・シンハ・タパ
ラナジョール・シンハ・タパ
バクティ・タパ 
バルバドラ・シンハ・クンワル
戦力

22,000 人
(第一次戦役)[1][2]17,000 人
(第二次戦役)[3]14,000人以上[4]
被害者数
不明不明

グルカ戦争(グルカせんそう、Gurkha War、1814年 - 1816年)は、イギリス東インド会社ネパール王国ゴルカ朝)との間で行われた戦争。ゴルカ戦争(Gorkha War)、ネパール戦争あるいは英・ネパール戦争(Anglo-Nepalese War)ともいう。国境紛争と領土的野心が原因で起きた。「グルカ」とはゴルカの英語読みである。

なお、18世紀末と19世紀中頃にネパールチベットとそれを支援する中国清朝に対して行った戦争もグルカ戦争と呼ぶことがあるが、こちらは清・ネパール戦争1789年 - 1789年1791年 - 1792年)、ネパール・チベット戦争1855年 - 1856年)を参照のこと。
歴史的背景
ゴルカの勃興プリトビ・ナラヤン・シャハ

数世紀にわたってカトマンズ盆地は三つの王国―カトマンズパタンそしてバクタプルがお互いに紛争を繰り返し、外部からの侵略への注意を怠ってきた。

しかし、1769年ゴルカプリトビ・ナラヤン・シャハが盆地を征服し、近代ネパール王国の基礎を築くことを可能にした。これに先立つ1767年、もともと盆地にいた王たちはゴルカの拡大の脅威を受け、イギリスに助けを求めた。これに応じ、キンロック大尉が指揮する2500人の装備と準備の劣った部隊による遠征が行われた。遠征は悲惨な結果を生んだ。ゴルカ軍は赤子の手をひねるようにこれを圧倒した。この非効率で形ばかりの英軍はゴルカ軍に火器を与えただけでなく、英軍は大したことがないという予断をもたらした。

カトマンズ盆地の征服はゴルカの拡大の第一章に過ぎなかった。1773年までに、ゴルカ軍は東ネパール全土を席巻し、1788年までにはシッキムの西部を併合した。

西に目を転じると、1790年までにカリ川に至るすべての支配者がゴルカの支配下に入った。そのさらに西、クマーウーン地方とその首都アルモーラーもやはりゴルカに屈服した[5]
清朝との衝突

北方では、ネパールはチベットとの間で、貨幣の交換レートをめぐる紛争、兄弟間の相続に不満をいだくカルマ派シャマルパトゥルクの亡命などを、一挙に解決するため、1789年から1789年1791年から1792年の2度にわたりチベットに侵攻した[6]。一時的にはチベット第二の都市シガツェを制圧したが、清朝の介入を受けて、撤退を余儀なくされた。

しかし、北方はといえば、チベットに対する奇襲(長期にわたる貿易問題と山岳の間の峠の管理についての論争に関係していた)は清国の介入を許してしまった。1792年、清国皇帝は巨大な軍隊を派遣し、チベットからネパール人を放逐し、カトマンズまで5キロまで迫った[7]

摂政・バハドゥル・シャハ(プリトビ・ナラヤン・シャハの息子)はイギリスのインド総督モイラ卿フランシス・ロードン・ヘースティングスに助けを求めた[6]。清国との衝突を恐れたヘースティングスは仲介者として、カークパトリック大尉を派遣したが、到着するまでに戦いは終わっていた。ネパールはチベットにおける貿易特権を無効にされ、5年ごとに北京に朝貢するという屈辱的条約を結ばされていた[7]
イギリスとの緊張、衝突
ネパールの領土拡大

清・ネパール戦争はかつてから計画されていたガルワール王国への攻撃を遅らせていた。しかし、1804年にはガルワールの王も屈服し、殺害され、全領土は併合された。アマル・シンハ・タパ将軍はさらに西方、カーングラまで遠征し、征服した。

一方、イギリスもその勢力圏を拡大していた。東インド会社によるアワド地方のナワーブ領の取得により、ゴーラクプルの版図はパルパ・セーナ王国の領土に接近した。パルパはガンダキ地方の中心部で唯一残された独立都市であった。パルパ王がイギリスと結託しているのではないかというゴルカの猜疑心により、1804年に彼は投獄され、暗殺された。ネパール宰相・ビムセン・タパは自らの父をパルパの総督にし、イギリスとの深刻な国境紛争の指揮にあたらせた。この紛争が起こった理由は、ゴルカとイギリス国境委員会が固定した国境を設けなかったことにあり、インド総督の失策であった。

ゴルカ軍はタライ平原へ侵入した。タライはネパールの丘陵地帯とインドを分ける細長く貴重な肥沃な土地である。緊張が高まった。イギリスは支配領域と、カルカッタ(コルカタ)とインド北西部を結ぶ細長い連絡路がゴルカの脅威の下にあると感じた。どちらの側も、どこに国境があるか分からず、力による衝突は避けられなくなった。
両国の対立

ゴルカが拡大した版図は東はシッキム、西はクマーウーンとガルワール、そして南はイギリスの勢力圏内のアワドに広がっていた。一方、イギリス東インド会社もカルカッタ、マドラス、ボンベイを本拠に勢力圏を拡大していた。

イギリスの版図拡大はインドの一部で既に抵抗にあい、マラーター戦争でそれは頂点に達していた。また、パンジャーブ地方ではランジート・シングが自らの帝国を建設しようという野心を持っていた。したがって、イギリスにとってゴルカとの戦争を早期に勝利することは喫緊の課題となっていた。

カトマンズの宮廷で来るべきイギリスとの戦いについて、ゴルカの幹部たちが意見を求められたとき、反対したのはアマル・シンハだけではなかった。


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