グルカ兵
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この項目では、兵隊について説明しています。他の意味でのグルカについては「グルカ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
イギリス国防省近くにあるグルカ兵の像。台座には交叉したククリの意匠と、インドの言語の研究者であるラルフ・リリー・ターナーによる「勇者の中の勇者。寛大な者の中の最も寛大な者。あなた方ほど忠実な友人を我が国は他に知らない。」という文章が添えられている

グルカ兵(グルカへい、Gurkha)とは、ネパールの山岳民族から構成される戦闘集団の呼称、およびその傭兵である。
概要

一般的に、ネパールのグルカ族出身者で構成される山岳戦白兵戦に非常にたけた戦闘集団であると考えられているが、実際にはグルカ族なる民族は存在せず、マガール族グルン族、ライ族、リンブー族などの複数のネパール山岳民族から構成されている。

また「グルカ」とは「ゴルカ」(サンスクリット語発音:gau raksha)の英語訛りであり、イギリスが英・ネパール戦争当時、ネパールのことを「グルカ」と呼んでいた(当時のネパール王国を支配していた王朝がゴルカ朝だった)ことによる。なお、グルカの原義は『牛を守る者』である。

グルカ兵は現地では「ラフレ(l?hure)」と呼ばれている。これはラホール(現パキスタンパンジャーブ州)のマハラジャが1809年に兵士としてネパール人を雇用したのがきっかけである[1]

ネパール人にとって傭兵として海外に出兵することは貴重な外貨取得方法の一つである[2][3]反面、結局はイギリス植民地帝国の一翼を担っただけという意見もあり、また本人にとっても傭兵として出兵し長期不在となることは家族関係を悪化させ、家族を不幸にさせるだけだったという意見もある[3]
歴史グルカ兵(1815年)連合軍の一部としての街に上陸した第五グルカ歩兵連隊。1946年

1809年にラホールのマハラジャによってグルカ兵が登用された。ネパールとイギリス東インド会社軍との戦争(英・ネパール戦争)の頃から東インド会社もグルカ兵を登用するようになった[1]。ネパール山岳民族特有の尚武の気性を持ち、白兵戦能力に優れ、宗教的な制約が少ない。一方でヒンドゥー教徒のインド人は宗教的な制約が多く、近代戦の兵士に向かず、運用に不自由をきたしていた。

その後、1857年10月にセポイの乱が発生すると、ネパールは14,000人のグルカ兵を派遣し、イギリス軍が行った鎮圧戦で大きな戦力となった。後に発足した英印軍では、シク教徒・ムスリム系インド人・パシュトゥーン人などとともに重要な地位を占めた。

ネパールは英領インドの影響を受けながらも独立を維持したアジアでも数少ない国の一つであり、その要因の一つにグルカ兵の輸出による防衛戦略も挙げられている[2]

グルカ兵は二度の大戦でもイギリス軍の兵士として活躍し、13名にヴィクトリア十字章が授与されている[1]。また第二次世界大戦では日本軍とも交戦した。竹山道雄著「ビルマの竪琴」の記述では「・・草色の服を着て、曲がった短刀を革帯にはさんだこの剽悍な土民兵は、森の木の上によじ登っていて、下を日本軍部隊が通ると、自動小銃で掃射を加えてくるのです。このグルカ兵が最もこわいので、日本軍はグルカ兵のいる村落を避けて回り道をしました」という。戦後はイギリス連邦占領軍として、日本の占領任務や朝鮮戦争にも従事した。

戦後は当時ラナ家による鎖国状態であったネパールを開国するための先導役となり、また反ラナ闘争に参加し民主化にも貢献した[1]
現在のグルカ兵2005年にシンガポールで開催された国際オリンピック委員会会議の会場警備をするシンガポール警察部隊のグルカ兵


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