グリーン・ハックワース
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グリーン・H・ハックワース
Green H. Hackworth

国際司法裁判所裁判官
任期
1946年 ? 1961年
ノミネート者

コーデル・ハル

ヘンリー・スティムソン

チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ

前任者(新設)
後任者フィリップ・ジェサップ(英語版)
国際司法裁判所所長
任期
1955年 ? 1958年
前任者アーノルド・マクネア(英語版)
後任者ヘルゲ・クレスタッド(英語版)
アメリカ合衆国
国務省法律顧問
任期
1931年7月1日 ? 1946年3月1日
前任者(新設)
後任者チャールズ・フェイ

個人情報
生誕 (1883-01-23) 1883年1月23日
アメリカ合衆国 ケンタッキー州プレストンズバーグ(英語版)
死没1973年6月24日(1973-06-24)(90歳没)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
出身校ヴァルパライソ大学 (BA)
ケンタッキー大学 (JD)
ジョージ・ワシントン大学 (LLB)

グリーン・ヘイウッド・ハックワース(Green Haywood Hackworth、1883年1月23日 - 1973年6月24日)は、アメリカ合衆国法学者である。国際司法裁判所(ICJ)の初のアメリカ出身裁判官、ICJ所長、国務省法律顧問コーデル・ハル国務長官の顧問を務めた[1]第二次世界大戦後の世界秩序の計画の策定に尽力し、1944年のダンバートン・オークス会議の米国代表団における主要メンバーだった[2]。戦後外交政策諮問委員会(英語版)委員(1942年)、戦後計画委員会委員(1944年)、国際司法裁判所の最初の規約を起草した法学者委員会の委員長(1945年)を務めた[1]。また、国連憲章の国際司法裁判所に関する条文が確定したサンフランシスコ会議に、第四委員会の米国代表団を代表して参加している[3]
若年期と教育

グリーン・ヘイウッド・ハックワースはケンタッキー州プレストンズバーグ(英語版)で、ジョナサン・T・ハックワース (Jonathan T. Hackworth) とリディア・ヘイウッド (Lydia Haywood) の長男として誕生した[4]。少年時代をビッグ・サンディ川(英語版)流域で過ごした。ヴァルパライソ大学で文学士(BA)、ケンタッキー大学法務博士(JD)、ジョージ・ワシントン大学法学士(LLB)を取得した[5]
初期のキャリア

大学卒業後、コロンビア特別区で弁護士となり、合衆国最高裁判所で勤務した[6]

1916年、国務省に法務書紀として入省し、1918年には法務官補となった。ハックワースは民主党員であったが、1925年には共和党チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官の推薦を受けて大統領の指名を受け、上院で承認されて国務省書記官に就任した[5]
国務省法律顧問

1931年7月、国務省法律顧問に任ぜられ、1946年3月までの15年間法律顧問を務めた[7]。この在任期間は国務省において最長である。この間の国務長官は、チャールズ・エバンス・ヒューズ、フランク・ケロッグヘンリー・スティムソンコーデル・ハルエドワード・ステティニアスの5人である。

ハックワースは、条約条項の分野における熟練した法律草稿家として知られており、アメリカの中立時代から第二次世界大戦参戦まで、外交関係に関わる問題に力を発揮した。大統領、国務長官、連邦議会議員、国務省内の他の部署に助言を提供した。境界水域条約(英語版)に基づいてアメリカ・カナダ間で設置された国際共同委員会において、アメリカ政府の代表として活動した。1930年、国際連盟の後援でハーグで開催された第1回国際連盟国際法典編纂会議にアメリカ米国代表として参加した。また、リマで開催された第8回パン=アメリカ会議(1939年)、第8回米州科学会議(1940年)、米州海洋会議(1941年)に参加した。ヨーロッパでの戦争が勃発した後、ハバナで開催された第2回米州外相会議(1941年)ではハル国務長官の顧問を務めた[3]
第二次世界大戦

12月7日(日曜日)、コーデル・ハル国務長官は野村吉三郎来栖三郎両大使との会談に先立ち、国務省でハックワースと会談していたが、午後1時30分にフランクリン・ルーズベルト大統領からハルあてに、日本の真珠湾攻撃を知らせる電話があった。ハルは、ハックワースや極東の専門家であるジョセフ・ウィリアム・バランタインに、待たせている日本の外交官に会うべきかどうかを相談した[8]。日本の外交官と会談し、それを見送った後、ハルはルーズベルト大統領と会談した後にハックワースと再び会談し、日米間の宣戦布告の起草について話し合った。戦争の進行とともに、ハックワースはハル国務長官、ルーズベルト大統領、サミュエル・ローゼンマン(英語版)判事や、政府内の多くの機関に助言を与えた。ハックワースの役割は、戦時国際法、中立法、交戦法の過去の法整備や、これらの法律がアメリカや他国に与える影響について検討することだった。1943年にはモスクワ会議(英語版)でハル国務長官の顧問を務め、1945年にはメキシコシティで開催された戦争と平和の問題に関する米州会議(英語版)(チャプルテペク会議)でエドワード・ステティニアス国務長官の顧問を務めた[5]
戦後の計画

1942年2月、ハル国務長官は戦後外交政策諮問委員会(英語版)を組織し、国際組織に関する特別小委員会を設置した[2]。この小委員会にハックワースも参加した。この小委員会では、戦後組織に関する国務省の漠然とした見解を明確にするための草案が作成された。1943年に40回を超える会議が開催され、将来の世界組織の計画に関わる重要な問題について、集中的に研究を行った[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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