グリンドゥールの反乱
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グリンドゥールの反乱

オワイン・グリンドゥール
St Tannwg and St Eithrias Church

1400年 - 1415年
場所主にウェールズ
(詳細な地図はこちらを参照のこと。)
結果イングランド王国の勝利

衝突した勢力
ウェールズ反乱軍
フランス王国 イングランド王国
指揮官
オワイン・グリンドゥール
リース・ゲシン (英語版) 
グリフィズ・アブ・オワイン・グリンドゥール (英語版) (捕虜)
テューダー・アプ・ グリフィズ (英語版) 
ジャン2世・ド・リュー (英語版) ヘンリー4世
ヘンリー5世
ジョン・タルボット
リチャード・グレイ (英語版)
ダヴィス・ガム (英語版)
エドマンド・モーティマー(捕虜)

グリンドゥールの反乱 (グリンドゥールのはんらん、Glynd?r Rising、またはWelsh Revolt、 Last War of Independence) は、1400年から1415年にかけて勃発したオワイン・グリンドゥール (1349年ないし1359年頃 - 1415年頃) 率いるウェールズイングランド王国に対する反乱である。この蜂起は当初極めて順調に拡大し、ウェールズの広範囲を支配下に治めることとなったが、最後は物量に勝るイングランド勢に圧倒された。

これは通常「統合法」と呼ばれる[1]1536年ならびに1543年のウェールズ議会法 (英語版) によりウェールズがイングランド王国に統合される前の、最後の大きな独立の意思表明であった[2]
背景
リチャード2世の凋落

イングランド王リチャード2世 (1367年-1400年) は14世紀最後の10年間で、彼の王国を強固に掌握し、常に彼の権威を脅かしてきた有力者の権勢を弱めるために、大胆な計画を打ち出していた。その計画の一環としてリチャードは、彼の権力基盤をイングランドの南東部とロンドンからチェシャー州へと移し、組織的にウェールズの近くに構築し始めた。ウェールズは王家による直接的な統治の下で、半自治的な封建地域、主教による管轄区、州、及び、領域などがパッチワーク様になった状態で統治されていた。リチャードは彼の政敵を排除し、彼らの土地を取り上げ、自分の側近に与えた。彼はそうすることにより、新しい領地に新設されたポストを埋めるために、ウェールズの全ての階層の人々を引き上げた。彼らにとって、リチャード2世による治世の最後の年はチャンスに満ちていた。しかしながらイングランドの有力者にとってそれは、リチャードが危険なほど制御不能であることを意味していた。リチャード2世

1399年、ランカスター公領の相続人でリチャードにより排除されたヘンリー・ボリングブルック (Henry Bolingbroke、1367年-1413年、後のヘンリー4世) は自分の土地を取り戻すために帰ってきた。彼は蜂起しリチャード2世に会うために行軍した。リチャードはボリングブルックに対処するためにアイルランドから慌ててウェールズに戻ったが、初代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (1341年-1408年) により捕えられた。リチャードはおそらくヘンリーの土地の返還に関して議論するために、フリント城 (英語版) でボリングブルックに会おうとしてコンウィ城から向かう途中だった。リチャードはロンドンに連れて行かれる前にチェスターで投獄された。議会はすぐにヘンリーを摂政とし、その後ヘンリーは即位した。リチャードは1400年1月のイギリス貴族による公現祭の反乱 (the Epiphany Rising (英語版)) の失敗のすぐあとポンテフラクト城 (英語版) で亡くなった。彼の死はしばらくの間一般には知られないままだった。ウェールズではオワイン・グリンドゥールのような人々は、誰を忠誠心の対象とするのか彼らの人生の中で初めて質問された。ウェールズ人は一般的にリチャード王を支持していた[3]。彼はプリンス・オブ・ウェールズ [注 1] として父親であるエドワード黒太子 (1330年-1376年) を承継していたからである。リチャードが排除されたことにより、ウェールズの人々の上昇の機会がより限定されていた。多くのウェールズ人にとって、彼らと彼らの未来がどうなるのか不確かなままだった。

しばらくの間、退陣した王の支持者が多数残っていた。不穏な空気がイングランドとウェールズの境界に沿って形成されていた。
オワイン・グリンドゥールとドゥ・グレイ間の紛争

反乱はオワインと彼のイギリス人の隣人との間の紛争として始まったといわれている[3]。ダフリン・クルーイドのグレイ・ドゥ・リシンバロン [注 2] (Baron Grey de Ruthyn of Dyffryn Clwyd) (英語版) の承継者は、イギリス人でウェールズの大地主だった。オワインは長い間彼らとの土地紛争を抱えていた。彼は議会に問題の解決を訴え、リチャード王の下で裁判所はその解決策を見つけ、その結果彼は勝訴した。しかしながら、第3代バロンレジナルド・グレイ (Reginald Grey, 3rd Baron Grey de Ruthyn、1362年-1440年) (英語版) は、新しい王の支持者で、この決定を覆すために自分の影響力を行使した。オワインはさらに訴えたが、退けられた[4]:9。さらにバロンは、1400年8月の新王によるスコットランド遠征に従軍させるためのオワインへの召喚状 (Royal Summons) を、意図的に差し控えていた。手続き的にはオワインはイングランド王のテナント・イン・チーフ (tenant-in-chief) (英語版) [注 3] として、過去にしたように積極的に軍隊を提供した[4]:10[6]。しかし、召喚状が来なかったためオワインはそれに対する返答をしておらず、そのことで@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}おそらく無意識のうちに、彼はヘンリー王の怒りをかっていた[独自研究?]。
ウェールズ人の反乱 (1400年-1415年)
反乱の開始

1400年9月16日、オワインは行動を開始し、彼の支持者のグループはオワインのプリンス・オブ・ウェールズ (ウェールズの君主) への即位を宣言した[3]。グループにはオワインの長男や義兄弟達、そしてディーン・オブ・セント・アサフ (Dean of St Asaph (英語版) 、聖職者の役職) が含まれていた。これはそれ自体革命的な声明であった。オワインの支持者達は北東ウェールズで急速に増えていった。9月18日、ドゥ・グレイの本拠地、リシン城は攻撃を受けほとんど破壊された[7]。その後すぐに、デンビー (Denbigh) (英語版) 、リズラン (Rhuddlan) (英語版) 、フリント (Flint) (英語版) 、ハーデン (Hawarden) (英語版) 、そしてホルト (Holt) (英語版) へと戦火は広がった。9月22日、オズウェストリー (Oswestry) (英語版) の街はオワインの襲撃でひどく損傷を受けていた。9月23日までオワインはポウィス城 (Powis Castle) (英語版) を攻撃しウェルシュプール (Welshpool) (英語版) の街を制圧しながら南に進軍した[6]:81。


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