グリズリー・スミス
1969年
プロフィール
リングネームグリズリー・スミス
ジェイク・スミス
ジェイク・ザ・ケンタッキアン
スカイ・ハイ・ジョーンズ
タイニー・アンダーソン
タイニー・スミス
本名オーレリアン・ジェイコブ・スミス・シニア[1][2]
ニックネーム灰色熊[2]
恐竜[3]
身長208cm[4] - 213cm[2][3]
体重154kg[4] - 159kg[1][3]
誕生日1932年8月6日[4]
死亡日 (2010-06-12) 2010年6月12日(77歳没)[4]
出身地 アメリカ合衆国
テキサス州
グレイソン郡ホワイツボロ[4]
デビュー1958年[1]
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"グリズリー" ジェイク・スミス("Grizzly" Jake Smith、本名:Aurelian Jacob Smith、1932年8月6日 - 2010年6月12日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州グレイソン郡ホワイツボロ出身[4]。
ルーク・ブラウンとの巨人タッグチーム、ザ・ケンタッキアンズ(The Kentuckians)での活動で知られる。息子のオーレリアン・ジェイコブ・スミス・ジュニア(ジェイク・ロバーツ)とマイケル・サミュエル・スミス(サム・ヒューストン)、娘のロビン・デニス・スミス(ロッキン・ロビン)もプロレスラーとして活躍した[5]。 テキサスの油田で働きながら、1958年よりパートタイムでプロレスのリングに出場[1]。1961年よりフルタイムでのレスラー活動を開始し[6]、ルーク・ブラウンとの巨人レスラー同士による超大型タッグチーム、ジェイク&ルークのザ・ケンタッキアンズを結成。伸ばし放題の髭面にネルシャツとジーンズという山男スタイルとなって、ベビーフェイスのポジションで活動する[1]。 ジョージアやフロリダなどNWAの南部地区では覆面タッグチームのジ・アサシンズと抗争を繰り広げ、1962年11月17日にはジョージアにて南部タッグ王座を獲得[7]。シングルではフレッド・ブラッシーを相手にジョージア版の世界ヘビー級王座を争った[8]。1964年にはWWWFに登場、ジェリー・グラハム&ルーク・グラハムのグラハム・ブラザーズと抗争し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでも両チームの対戦が組まれた[9]。1965年はロサンゼルスのWWAにてアサシンズとの抗争劇を再開、8月8日と9月11日の2回に渡り、アサシンズからWWA世界タッグ王座を奪取している[10]。1966年はAWAのミッドウエスト地区において、9月10日にデール・ルイス&ハーリー・レイスを破りAWA中西部タッグ王座を獲得した[11]。 1967年1月、ブラウンと共に国際プロレスの旗揚げシリーズに初来日(名義はジェイク・スミス)[12]。1月6日に大阪府立体育館、24日に宇都宮の栃木県営体育館にて、エース兼ブッカーのヒロ・マツダと東京プロレスのアントニオ猪木が保持していたミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座に挑戦した[13]。来日中は、マンモス鈴木や木村政雄などの中堅・若手選手を相手にしたハンディキャップ・マッチも行われている[13]。 その後、ブラウンとのコンビを解消して、シングルプレイヤーとなって各地を転戦。1968年3月25日にはカナダのバンクーバーにてドン・レオ・ジョナサンと組み、因縁のアサシンズからNWAカナディアン・タッグ王座を奪取[14]。同年7月20日にはテキサスのサンアントニオにて、ザ・スポイラーを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得している[15]。1969年はアマリロ地区にてバディ・コルトやシャチ横内と、1970年はフロリダ地区にてターザン・タイラーやテキサス・アウトローズとそれぞれ抗争した[16][17]。 1971年、中南部のトライステート地区にてケンタッキアンズを一時的に再結成し、4月にワルドー・フォン・エリック&カール・フォン・ブラウナーからUSタッグ王座を奪取[18]。
来歴