グリコ・森永事件
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グリコ・森永事件
正式名称
警察庁広域重要指定114号事件
場所 日本兵庫県大阪府
標的江崎グリコ丸大食品森永製菓ハウス食品不二家駿河屋
日付1984年昭和59年) - 1985年(昭和60年)
概要企業への連続脅迫拉致事件
攻撃手段.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

食品への毒物混入

誘拐

攻撃側人数不明
被害者江崎勝久など
犯人不明
動機不明
管轄大阪府警察兵庫県警察など
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グリコ・森永事件(グリコ・もりながじけん)とは、1984年昭和59年)と1985年(昭和60年)に日本阪神間大阪府兵庫県)を舞台に食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。

警察庁広域重要指定114号事件。また、略して「グリ森事件」「グリ森」とも言われる。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ばれる。

2000年平成12年)2月13日愛知青酸入り菓子ばら撒き事件殺人未遂罪時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立してこの事件は完全犯罪となり、警察庁広域重要指定事件では初の未解決事件となった。
概要

1984年3月、江崎グリコ社長を拉致して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。その後、丸大食品森永製菓ハウス食品不二家駿河屋など食品企業を次々と脅迫。現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。犯人と思しき人物が何度か目撃されたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。

その他、1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れた。

1984年4月12日警察庁広域重要指定事件に指定された。

2000年平成12年)2月13日に東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立。警察庁広域重要指定事件としては初めて犯人を検挙出来なかった未解決事件となった。

2005年(平成17年)3月に除斥期間(民法第724条)が経過し、民法上の損害賠償請求権が消滅した。

企業への脅迫状とは別に報道機関週刊誌などに挑戦状を送りつけ、毒入り菓子をばらまいて社会一般を騒ぎに巻き込んだことで、評論家の赤塚行雄から劇場型犯罪と名付けられた[1]。同時期にこの事件と並行して話題となっていた三浦和義ロス疑惑とともに当時の世相として振り返られることも多い[2]
一連の事件
江崎グリコ社長誘拐事件

1984年3月18日21時ごろ、当時兵庫県西宮市に居住していた江崎グリコ社長江崎勝久の実母宅に拳銃空気銃を構えた2人の男が勝手口を破って押し入り(家の外には車の運転手役の男がおり、犯行は3人組の男が実行している)、同女を縛り上げて社長宅の合鍵を奪った。2人組はそのまま隣家の社長宅の勝手口から侵入、社長夫人と長女を襲い、2人を後ろ手に縛って脇のトイレに閉じ込めた。その後、2人の男は浴室に侵入。長男、次女と入浴中だった社長を銃で脅し、全裸のまま拉致(略取)した。夫人はこの後、自力でテープをほどいて110番通報。

翌3月19日1時ごろ、大阪府高槻市の江崎グリコ取締役宅に犯人の男から指定の場所に来るよう電話がある。取締役が指定場所に向かうと、社長の身代金として現金10億円と金塊100キログラムを要求する脅迫状があった。

この段階から、兵庫県・大阪府にまたがる重大事案として、兵庫県警察本部、大阪府警察本部による合同捜査体制が始まる。その後、犯人の男から電話があり別の指定場所に身代金を持って来るよう要求したが、結局犯人は現れなかった。犯人グループが要求した現金10億円は高さ9.5メートルで重量は130キログラム、これに加えて金塊100キログラムでは運搬が困難であり、合同捜査本部ではどこまで犯人グループが本気で要求していたのかいぶかる声もあったが、要求に従ってグリコはそれらを用意した[3]。社長の母や社長夫人が犯人に対して「お金なら出します」と言ったにもかかわらず「金はいらん」と犯人が答えたこと[4]、身代金が目的なら抵抗される可能性が少ない7歳の社長長女を誘拐するほうがリスクが少ないのにわざわざ成人男性である江崎を拉致していることなどが身代金目的の拉致としては不可解な点であり、金目的ではなく怨恨が犯行の原因という説の根拠となった。

その後、拉致事件は急展開する。事件から3日後の3月21日14時30分ごろ、日本国有鉄道(国鉄、現在のJRグループ)職員から110番通報を受けた大阪府茨木警察署によって江崎が保護された。江崎の証言によると、大阪府茨木市東海道新幹線車両基地近くを流れる安威川沿いにある治水組合の水防倉庫から自力で抜け出したとされ、対岸に見えた摂津市大阪貨物ターミナル駅構内へ駆け込み、居合わせた作業員達によって無事に保護された[5]
江崎グリコ脅迫事件

1984年4月2日、江崎宅に差出人不明の脅迫状が届く。内容は4月8日に指定場所へ現金6000万円を持ってくるよう要求。脅迫状には塩酸入りの目薬の容器が同封されていた。4月8日に現金受け渡し指定場所に警察が張りこむも、犯人は現れなかった。

4月8日には、犯人グループから大阪の毎日新聞サンケイ新聞へ手紙が届く。マスコミ宛に世間一般への公開を前提とした初めての挑戦状だった。手紙には無署名で封筒の差出人名は江崎の名前を使っていた[6]

4月23日、江崎グリコに1億2000万円を要求する脅迫状が届く。現金受け渡し日は4月24日に指定されていたが、レストランから名神高速道路吹田サービスエリア、電話ボックスと現金を受け渡す運転手をたらい回しにし、犯人は現金受け渡しに現れなかった。

同日にはマスコミ宛に2回目の挑戦状が送られており、これ以後、犯人グループは「かい人21面相」を自称するようになる。このネーミングは江戸川乱歩の小説『少年探偵団』シリーズに登場する怪人二十面相に由来するものとみられる[7]

5月31日、江崎グリコに3億円を要求する脅迫状が届く。6月2日に摂津市内のレストランの駐車場に3億円を積んだ車を置くことを指示。6月2日、大阪府警察本部刑事部捜査第一課特殊事件係を中心に30人体制で犯人を待ち受けた。後部トランクに忍んだ捜査官がスイッチを押すことにより、エンジンをストップできる細工を施された車を駐車場に置き、周辺には特殊事件係が展開した。

20時45分頃、駐車場に不審な男が現れ、そのまま車に乗りこむ。後部トランクの捜査官は無線機のトラブルにより連絡が取れなくなり、予定の地点よりも早くエンジンをストップさせた。特殊事件係の捜査車両数台に包囲され、運転手は取り押さえられた。しかし、運転手は犯人から脅されて、駐車場の車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示されただけで事件とは無関係と判明(後述の寝屋川アベック襲撃事件を参照)。特殊事件係の捜査官数人は運転手が行く予定だった指定場所に捜査車両を急行させると、不審車両1台が走り去ろうとしたため追跡。


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