グリエルモ・マルコーニ
[Wikipedia|▼Menu]

グリエルモ・マルコーニ
Guglielmo Giovanni Maria Marconi, 1o Marchese di Marconi
生誕 (1874-04-25) 1874年4月25日
イタリア王国 ボローニャ
死没1937年7月20日(1937-07-20)(63歳)
イタリア王国 ローマ
出身校ボローニャ大学
主な業績無線通信
主な受賞歴ノーベル物理学賞 (1909)
署名
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

ノーベル賞受賞者
受賞年:1909年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:無線通信の研究

グリエルモ・マルコーニの肖像がデザインされている2000リラ紙幣

初代マルコーニ侯爵グリエルモ・ジョバンニ・マリア・マルコーニ(Guglielmo Giovanni Maria Marconi, 1o Marchese di Marconi、1874年4月25日 - 1937年7月20日)は、無線電信の開発で知られるイタリア発明家起業家ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ会員。

1909年、無線通信の発展に貢献したとして、ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞した[1][2][3]

1916年より短波開拓に着手し、日中でも遠距離通信が可能な「昼間波」を発見[4]。1924年、英国郵政庁より短波公衆回線の建設を請負い、「昼間波」と「ビームアンテナ」の二刀流で短波黄金時代を切り拓いた[5]。1933年には世界初のUHF実用回線を完成させたほか[6]、UHF波が曲がることを発見している[7]。実業家としても戦間期の国際政治を左右するほど成功した。

1897年にマルコーニ無線電信会社(英語版)を創立した。イギリスのマルコーニ社は一世紀以上もの間ゼネラル・エレクトリック・カンパニーとして知られていたが、1968年にはイングリッシュ・エレクトリック他多数の電機会社と合併して、1999年に防衛機器部門をBAEシステムズに売却し、残った事業がマルコーニ株式会社という名前で存続している[8]

1919年、アメリカン・マルコーニ社がゼネラル・エレクトリックAT&Tウェスティングハウスに買収されてRCAとなった。

1928年3月16日、ジョン・ペンダーと政府受注を争った末に、帝国代表者会議の立会いで、ペンダー側イースタン電信会社とマルコーニ無線電信会社間で保有比率56.25対43.75とする持ち株会社をつくることで合意した。代表者会議による審議は続き、7月6日に勧告として報告書が出された。内容は、ペンダーとマルコーニの各事業だけでなく、郵政省の短波システムに太平洋/大西洋ケーブルを一挙に合併させる構想であった[9]。8月に議会で承認されてから、構想は自治領で次々と追認された。1929年4月8日、合併会社はケーブル・アンド・ワイヤレス、通信会社は帝国国際通信Imperial and International Communicationsという名前で発足した。これらは世界的な通信網として、P&O帝国航空会社(現・ブリティッシュエアウェイズ)などで利用された。
生い立ち、幼少期、教育
生い立ち

ジュゼッペ・マルコーニ(Giuseppe Marconi)と、アニー・ジェームソン(Annie Jameson)の次男として、1874年4月25日にボローニャで誕生。フルネームはグリエルモ・ジョヴァンニ・マリア・マルコーニ(Guglielmo Giovanni Maria Marconi)。父ジュゼッペはイタリアのポッレッタ・テルメ出身のボローニャの裕福な地主。母アニーはアイルランド人ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー (Jameson Whiskey distillery) の創業者の曾孫[1]

グリエルモにはアルフォンソ(Alfonso)という兄がいる。(なお、ジュゼッペにとってアニーは再婚相手で、グリエルモは、父親から見て3人の男の子の一番下の子で、母親から見ても末っ子である。グリエルモの立場からすると、ルイージ(Luigi)という母親違いの兄もいたようである。)

グリエルモが2歳から6歳の間は、兄アルフォンソや母アニーとともにイングランドのベッドフォードで暮らした[10]
教育

マルコーニはとても裕福な家庭の生まれであり、一般人のように学校にはほとんど通わなかったが[11]、両親が家庭教師を何人も雇ってくれたおかげで、数学や物理、化学などをマンツーマンで学ぶことができた。また、マルコーニ母子には、秋や冬に母アニーの姉妹の住むリヴォルノ(トスカーナの町)に毎年のように滞在していた時期があったが[12]、この地でアニーは、愛しい末っ子のグリエルモのために、ヴィンツェンツォ・ローザ(Vincenzo Rosa)という、現地のリチェオ・ニッコリーニ(Liceo Niccolini。「ニッコリーニ高校」)で物理数学を教えている男性教師を雇うことを決めた[12]。マルコーニは後年、このローザとの出会いが重要だった、と振り返っている[12]。ローザは、1848年にトリノで生まれ、トリノ王立大学で物理と数学の学位を得た後、イタリア各地の高校やフィレンツェの物理学校などで教えていたが、ヘルツ波に興味があり、科学論文を執筆し、実験装置を所持していた[12]。マルコーニは、17歳の頃、1891年の秋からほぼ1年間、ローザから基本的な物理学や電気工学の理論と応用について個人授業を受けた[12]。したがって、マルコーニは、電気に関する新しい理論をローザから教わり、さらに彼が自宅の研究室に招いてくれたおかげで、様々な実験を行うことができた[12](なお、この指導期間の後、別々の道を進むことになった後も、マルコーニとローザの間に育まれた互いへの信頼感や尊敬の念は続いくこととなる[12]。マルコーニはたびたび彼のもとを訪ね、人前でもことあるごとにローザの恩について語った[12]。ローザは結婚し子供も3人得たが、惜しいことに弟子のマルコーニがノーベル賞を受賞するところは見ることができず、受賞の前年の1908年に亡くなった[12]。マルコーニは受賞スピーチでも、独学であった自身の学びにローザが実際に直接的に貢献してくれたことを述べた[12])。

マルコーニは18歳でボローニャに戻ると、ボローニャ大学アウグスト・リーギ教授と交流を始めた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:201 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef