グラーフ・ツェッペリン_(空母)
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グラーフ・ツェッペリン

基本情報
建造所ドイチェヴェルケ
運用者 ナチス・ドイツ海軍
艦種航空母艦
級名グラーフ・ツェッペリン級航空母艦
艦歴
発注1935年11月16日
起工1936年12月28日
進水1938年12月8日
最期1940年6月 建造中断
1943年 建造中止
1945年4月25日 自沈
要目
排水量33 550 t
全長262.5 m
最大幅31.5 m
吃水7.6 m
主機ギヤードタービン2基4軸、200,000hp
最大速力35 kt
航続距離19ノット/8,000海里
乗員1,720 名、(パイロット:306名)
兵装15cm(55口径)連装砲8基、
10.5cm(65口径)連装高角砲6基、
37mm連装機関砲11基、
20mm機銃28丁
装甲舷側:100mm、
甲板:60mm
搭載機42 - 50機
Bf109T
Me155
Ju87B/C/E
Ju87D-4
Fi167
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グラーフ・ツェッペリン(ドイツ語:Graf Zeppelin)は、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) が建造していたグラーフ・ツェッペリン級航空母艦の1番艦である。艦名は、硬式飛行船を実用化したフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵に由来する。
概要
建造進水後のグラーフ・ツェッペリン

1930年代、権力を掌握したアドルフ・ヒトラーの指導下で、ドイツ再軍備を開始した[1]ドイツ海軍においては、ビスマルク級戦艦Uボートと同時期に航空母艦の建造計画がスタートした[2]。しかしドイツに空母の建造や運用経験はなかったため、1935年(昭和10年)にドイツ海軍は大日本帝国海軍に協力を依頼[2]。日本海軍は空母「赤城」の設計図および同艦での訓練方法まで「すべての秘密を公開」し、ドイツ技術者・飛行将校の視察を許した[2]。これに対しドイツ側は、航空機の設計・軍艦の防御甲板・火薬他の秘密を日本側に譲渡した[2]。これらは九九式艦上爆撃機大和型戦艦建造用の機械・技術であった[3]

1935年(昭和10年)6月18日、イギリスとドイツは英独海軍協定 (Anglo-German Naval Agreement) を締結し、イギリスはドイツが3万8500トンの枠内で航空母艦を建造し、保有することを認めた。つまりドイツは19,000トン級空母2隻を保有できることになったのである。

これらドイツ側の諸事情により計画案作成に時間がかかり、ドイッチェ・ヴェルケ社での起工は1936年(昭和11年)12月になってしまった。設計に際しては、イギリス海軍巡洋戦艦改造空母フューリアス (HMS Furious, 47) 」および同盟国日本の空母「赤城」が参考にされている。「赤城」の図面のうち、実際に設計に反映されたのは、艦上機昇降用の中央エレベーターの部位と、対艦砲を多数搭載するという黎明期の空母の設計思想であった。ドイツの同盟国で唯一、大型の正規空母を建造・運用する日本に協力を依頼するのは自然であるが、「赤城」はもともとは天城型巡洋戦艦として建造された後、ワシントン海軍軍縮条約の影響で空母に改造された艦であるため、一から空母を設計・建造する際の参考とするのは非合理的であった[注釈 1]。以上の理由により、しばし言われる「グラーフ・ツェッペリンは赤城のコピー艦である。」という話は誇張であると言える。そもそも技術移転がされた当時の「赤城」は三段甲板空母であり、近代化改装前であった。一方の「グラーフ・ツェッペリン」は多段式空母ではない。ドイツ軍士官が来日して学んでいった「赤城の技術」は、運用技術・訓練法、艦載航空機、改善ポイントといった、すなわち当時日本が持っていた空母のノウハウと呼ぶべきものが大きい。

グラーフ・ツェッペリンは1938年(昭和13年)12月8日[2]キール造船所で進水した[注釈 2]。公表された基準排水量は19,250トンであったが、実際には23,140トンに達していたという[2]。搭載機の候補にあがっていたJu-87 シュトゥーカは、海上での運用を想定して改造が加えられ、1941年夏に完成した[5][注釈 3]

1940年半ばになると状況は劇的に変化し、北のノルウェーから、南はスペイン国境までの長大な海岸線を連合国軍の上陸から守る必要が生じた為、それまで本艦よりも優先順位の低かった沿岸要塞は突然最優先事項に浮上し、兵器、要員、そしてあらゆる種類の軍需品が迅速にこの分野に投入され、後に大西洋の壁と呼ばれる壮大な要塞線建設計画が立てられた。この為に海軍の艦艇建造計画は削減され、その資材は沿岸防衛要塞建設に投入される事となった。この段階で造船所の船台上にあったグラーフ・ツェッペリンの15p主砲及び10.5p高射砲は要塞や沿岸砲台に転用され、完成率90%前後に達していた本艦の艤装工事は1940年に中断された。尚、既にその段階で艦艇用サーチライトと数門の37o対空砲は装備されていた。

結局、ドイツ海軍は空母で運用できるほどの艦上機(航空兵力)を養成しなかった[7]。1939年10月の建造中断時点でJu87のC型(海軍型)は170機が製造中だったが、大部分は標準型(B-2規格)に再改造されて引き渡された[6]。本艦が建造中止になった頃、同盟国イタリア王立海軍 (Regia Marina) は貨客船ローマ(英語版、イタリア語版)を航空母艦へ改造する工事をおこなっており、「アキラ (Aquila) 」と命名していた[8]。ドイツは「グラーフ・ツェッペリン」のカタパルトや一部の資材をイタリア海軍の空母に提供した[9]

本艦の工事は1942年(昭和17年)5月に再開された。


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