グランドラピッズ_(ミシガン州)
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グランドラピッズ市
City of Grand Rapids

位置

ケント郡内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度57分40秒 西経85度39分20秒 / 北緯42.96111度 西経85.65556度 / 42.96111; -85.65556
歴史
創設1826年
行政
USA
 州ミシガン州
 郡ケント郡
 市グランドラピッズ市
地理
面積 
  市域117.4 km2 (45.3 mi2)
    陸上  115.6 km2 (44.6 mi2)
    水面  1.8 km2 (0.7 mi2)
標高200 m (640 ft)
人口
人口(2020年現在)
  市域198,917人
  備考[1]
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : ⇒http://www.grcity.us/

グランドラピッズ(Grand Rapids)は、アメリカ合衆国ミシガン州の都市。ケント郡郡庁所在地である。人口は19万8917人(2020年)で、デトロイトに次ぐミシガン州第2の都市である。ケント郡を中心に4郡にまたがる都市圏を形成している。グランドラピッズは家具産業で知られ、「家具の街」と呼ばれている。

グランドラピッズは第38代大統領ジェラルド・R・フォードゆかりの街である。フォードはグランドラピッズで少年期を過ごし、ベティ・ブルーマーと出会った。2006年の暮れに死去したフォードはグランドラピッズの大統領博物館の敷地内に埋葬されている。グランドラピッズの玄関口となる空港、ジェラルド・R・フォード国際空港はフォードにちなんで名付けられた。
歴史グランドラピッズの地図(1853年

2,000年以上前、グランド川流域一帯には古代のアメリカ先住民の文化であるホープウェル文化が栄えていた[2]1700年頃、ネイティブ・アメリカンのオタワ族はグランド川沿いにいくつもの村を創った。この地にヨーロッパ人が入植し始めたのは19世紀に入ったあたりであった。初期の入植者は主に毛皮の取引商であった。彼らはネイティブ・アメリカンから毛皮を買い、ヨーロッパから持ち込んだ金属製品や織物を売るという取引を行っていたため、必然的にオタワ族の村の近くに入植地を建設して住んでいた。西ミシガンに最初の毛皮取引所を創設したのはジョセフ・マデリーンのラ・フランボワーズ夫妻であった。夫妻の建てた取引所は現在のエイダの近くにあった。1806年に夫が死去した後、マデリーン・ラ・フランボワーズは最初の取引所の西と北にも新たな取引所を創設し、事業を拡大した。その後フランボワーズの会社とアメリカ毛皮会社は合併した。フランボワーズは41歳で退職し、西ミシガンを離れてマキナック島に移り住んだ。

1825年ケンタッキー州出身のバプテスト教会宣教師、イサク・マッコイが布教のためにグランドラピッズを訪れた。マッコイはグランドラピッズ最初の定住者となった。翌1826年にはデトロイト出身のルイス・キャンポーがグランド川の急流の東岸に取引所を建設した。キャンポーは一旦デトロイトに帰ったが、その翌年に妻を連れ、5,000ドルの商品を持ってこの地に舞い戻り、地元のネイティブ・アメリカンと取引を始めた。1831年、連邦によるノースウェスト準州の調査がグランド川の河岸まで進み、ケント郡の領域が定められた。郡名はニューヨーク弁護士ジェームズ・ケントにちなんでつけられた。同年、キャンポーは現在のグランドラピッズのダウンタウンにあたる291,000m2の土地を連邦政府から90ドルで購入し、「グランド川の急流」を意味するグランドラピッズという名をつけた[2]。 キャンポーのライバルであったルシアス・リヨンは残りの土地を購入し、ケント村と名づけた。

1830年代に入ると、グランドラピッズ一帯にはニューヨークニューイングランドから人が移り住んでくるようになった。1836年には、ジョン・ボールはデトロイトを通り越してグランドラピッズに発展の可能性を見出し、この地をthe promised land, or at least the most promising one for my operations(将来を約束された地、少なくとも、私の手がけた中では最も将来性のある地)と評した。1838年には正式な村となり、村域も東西・南北それぞれ約1km程度に広がった。1845年に初めて正式な統計が取られたときには、グランドラピッズの人口は1,510人を数え、村域も4km2に広がっていた。1850年5月1日には市制を施行した[2]。市制施行時の人口は2,686人であった。1857年には、グランドラピッズの市域は27km2に広がった。
家具の街グランドラピッズの中心部、1905年

現在のグランドラピッズの街の基礎が築かれたのは19世紀後半に入ってからであった。この頃、グランドラピッズは製材業と家具産業の中心地として栄えていくようになり、Furniture City(家具の街)と呼ばれるようになった[3]1876年フィラデルフィアで開かれた国際展示会では、グランドラピッズは高品質な家具を生産する街として世界中にその名を知らしめた。また、この頃に始まった全米家具市は1960年代に至るまで75年間にわたって開かれていた。現在では事務用家具の生産が中心になっている。また、19世紀にはこの地にオランダ系の移民が大量に移入してきた。現在グランドラピッズに多く住むオランダ系住民の多くは、この頃に移入してきた移民の子孫である。

交通網も確立されていった。1867年にはグランドラピッズに鉄道が敷かれた。このグランドラピッズ・アンド・インディアナ鉄道はその数十年にわたって路線を拡大し、グランドラピッズを中心にしてマスキーゴンや北ミシガンのトラバースシティ、マッキノーシティへ、南へはカラマズーを経てインディアナ州に入りフォートウェインへ、さらに南下してシンシナティへと通じた。またシカゴへ通じる路線も敷かれた。1926年にはスタウト航空(Stout Air Services)による、全米最初の航空機の定期旅客便がグランドラピッズとデトロイトを結んだ[4]

1900年にはグランドラピッズの人口は87,565人を数えた。1916年、市はミシガン州法のホーム・ルール・チャーターを受け入れ、全米でも最初の部類に入るシティー・マネージャー制を採用した。現在でもグランドラピッズ (の市政はシティー・マネージャー制が採られている。
地理雪のグランドラピッズ

グランドラピッズは北緯42度57分40秒 西経85度39分20秒 / 北緯42.96111度 西経85.65556度 / 42.96111; -85.65556に位置している。市の中心部をグランド川が流れている。かつてはこの付近は急流であったことから、「グランド川の急流」を意味するグランドラピッズという市名がついた。市の標高は186mである。ミシガン湖の湖岸線からは約50km離れている。州都ランシングからは西北西へ約100km、デトロイトからは西北西へ約250kmに位置している。西ミシガン地域のもうひとつの主要都市であるカラマズーはグランドラピッズから南へ約80kmに位置している。

アメリカ合衆国統計局によると、グランドラピッズ市は総面積117.4km2(45.3mi2)である。このうち115.6km2(44.6mi2)が陸地で1.8km2(0.7mi2)が水域である。総面積の1.50%が水域となっている。市の水域のほとんどはグランド川である。


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