グランソンの戦い
[Wikipedia|▼Menu]

グランソンの戦い

グランソンの戦い。ディーボルト・シリング画。
戦争:ブルゴーニュ戦争
年月日:1476年3月2日
場所:ヌーシャテル州、グランソン近郊
結果:スイスの勝利
交戦勢力
スイス盟約者団 ブルゴーニュ公国
指導者・指揮官
ニコラス・フォン・シャルナハタル ブルゴーニュ公シャルル
戦力
およそ18,000人およそ20,000人
損害
およそ100人およそ1,000人
ブルゴーニュ戦争


ノイス

エリクール

プランタ

グランソン

ムルテン

ナンシー

表示

グランソンの戦い(グランソンのたたかい、仏:Bataille de Grandson)とは、1476年3月2日に行われたブルゴーニュ戦争の中の戦いの一つ。ブルゴーニュ公シャルルが大敗を喫した戦いである。
目次

1 グランソン包囲

2 捕虜の処刑

3 グランソンの戦い

4 結果

5 脚注

6 出典及び加筆参照文献

7 関連作品

7.1 ゲーム


グランソン包囲 グランソン包囲と駐屯軍の処刑。ヨハン・シトゥムプフ画。

1476年2月の末、シャルル豪胆公(あるいは突進公とも呼ばれる)は、ヌーシャテル湖畔のグランソン城を包囲した。グランソンはシャルルの同盟者であるジャコモ・ディ・サヴォイアの所領であったが、前年にスイス盟約者団に奪われていた。シャルルは大規模な傭兵部隊と共に多くの大砲を率いており、その砲撃の威力が明らかになるとスイス側守備隊は落城の恐怖に怯えるようになった。ベルン州の強い影響下にあったスイスは、守備隊を救援すべく軍を編成した。援軍の接近を知らせる船がグランソンに向かったが、ブルゴーニュ軍の砲撃を恐れ城塞に接近することができなかった。船に乗った人々は援軍が近づいていることを身振りで城塞の中の人々に知らせようとしたが、守備隊はこれを誤解し、降伏を決断した。
捕虜の処刑 グランソン野営地の略奪。1483年ディーボルト・シリング(従兄)画。 ルツェルンで陳列されたグランソンの戦利品。1513年ディーボルト・シリング(従弟)画。

スイス側の資料の記述は、シャルルが助命を保障したので守備隊は降伏したということで一致している。シャルルに同行していた歴史家パニガローラは、守備隊は突進公の慈悲に身を委ねたのであり、その処遇の決定権はシャルルにあったと主張している。シャルルは守備隊412人全員を処刑するよう命じた。その情景を描写するにあたってパニガローラは「衝撃的で恐ろしいできごと」と記し、スイス国内は恐怖に満たされるに違いないと述べている。1476年2月28日、犠牲者たち全てはシャルルの天幕の側を引き立てられ、木に吊されるか湖に沈められた。処刑には4時間かかった。
グランソンの戦い

スイスは守備隊がどのような運命をたどったかという知らせを受けないまま、包囲が解かれることを願いつつ兵力を集めた。この援軍は20,000人強を数え、おそらくはブルゴーニュ軍をわずかに超えるほどであった。1476年3月2日、スイス軍はコンシスという町の近郊でシャルルの部隊に接近した。スイス軍は三手に分かれて進軍しており、前衛がブルゴーニュ軍と接触した。偵察が不十分であったため、シャルルはスイス軍の規模と陣形を把握できず、スイス軍の前衛のみを援軍の全てであると誤解した。シュヴィーツ、ベルン、ゾロトゥルンからの兵で編成された前衛部隊は、間もなく戦闘になることを察して、ひざまずき祈った。伝えられるところによると、彼らが「我らが主よ」、「アヴェ・マリア」と3回唱えたのを、ブルゴーニュ軍の一部が降伏の意思表示と見誤ったとされる。いずれにせよこの行動はブルゴーニュ軍の怒りを買い、シャルルは攻撃開始の命令を下した。[1]彼らは「慈悲は与えない、お前達は全員死ぬのだ」と叫びながら突撃した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:11 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef