グラマースクール
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グラマースクール(: grammar school)は、イギリスおよび英語を主要言語とする国の教育史において数種類ある学校のうちの1つである。現在この学校は中等教育を形成している。文法学校(ぶんぽうがっこう)ともいう。中世におけるグラマースクールの本来の目的はラテン語を教えることにあったが、そのうちカリキュラムが拡大し、まず古代ギリシャ語や時にはヘブライ語、後に英語や他の欧州の言語を、そして同様に自然科学数学歴史地理学などの科目も教えるようになった。ビクトリア時代の後半、異なる教育制度を発展させたスコットランドを除くイギリスの各地で、グラマースクールは中等教育を施すために再編成された。こうしたグラマースクールはイギリスの統治領でも設立され、各地でそれぞれ違う形に発展していった。

1940年代半ばから1960年代後半にかけて、グラマースクールはイングランドとウェールズで三分岐型教育制度(英語版)[note 1]からなる公立中等教育の選択肢の1つとなり、北アイルランドでは継続している。1960年代から1970年代の非選択制のコンプリヘンシブ・スクール[note 2](総合制中等学校)[note 3]へ移行すると、一部のグラマースクールは完全に独立し有償化したが、ほとんどの学校は廃止されるかコンプリヘンシブ・スクールになった。いずれの場合も多くの学校では校名に「グラマースクール」が残った。イングランドの一部の地域では、三分岐教育制度を維持しており、総合学校化された地域にも少数ではあるがグラマースクールが残っている。現存するグラマースクールには16世紀以前にその歴史を辿れるものも存在する。
初期のグラマースクール

中世以来、グラマースクールはラテン語(後に他の古典語)を教える学校であった。Scolae grammaticales という用語は14世紀までは広く使われていなかったものの、こうした学校の最古のものはカンタベリーのキングズ・スクール(597年創立)やロチェスターのキングズ・スクール(英語版)(604年)などのように6世紀から見られた[1][2]。こうした学校は教会の言語であるラテン語を将来神父や僧侶になる者へ教えるため、大聖堂や修道院に付属していた。音楽や典礼用の韻律詩、教会暦のための天文学や数学、教会運営のための法律などの科目は必要に応じて加えられた[3]ウィンチェスターカレッジの礼拝堂

12世紀後半における古代の大学の創設以来、ラテン語が三学(英語版)の基盤とみなされるようになると、グラマースクールはリベラル・アーツ教育の入口となった。生徒は通常14歳になり次第グラマースクールで教育を受け、次に大学や教会を目指したと考えられる。ウィンチェスター・カレッジ(1382年)やイートン・カレッジ(1440年)など、教会から独立した最初のグラマースクールは大学と密接な関係にあり、また寄宿学校も国民的なものになっていった[3][4]。これとは対照的に中世の自治体が創設した初期グラマースクールの例がブリッジノースが1503年に創立したブリッジノース・グラマースクール(英語版)である[5]

16世紀のイングランドの宗教改革(英語版)でほとんどの大聖堂付属の学校は閉鎖され、修道院解散による資金で新たに創設された学校に置き換わった。[3]例えばウェールズに現存する最も古いブレコンのクライストカレッジ(1541年創立)やバンガーのフリアーズ・スクール(英語版)(1557年創立)は、ドミニコ会修道院の跡地に建てられた。エドワード6世は治世に多くの学校に出資しグラマースクールの重要な出資者になり、ジェームズ1世はアーマーのロイヤル・スクール(英語版)を始めとしてアルスターに多くの「ロイヤル・スクール」を創立した。理論的にはこうした学校は全ての人に開かれ、学費の払えない生徒は免除されることになっていた。しかし貧しい子供の大多数は、彼らの労働が家族にとって経済的価値が高かったために入学できなかった。

スコットランドの宗教改革(英語版)では、グラスゴー大聖堂聖歌学校(英語版)(1124年創立)やエジンバラ教会グラマースクール(英語版)(1128年)といった学校の管理は教会からバラの評議会に移り、バラは新たな学校も創設した。

宗教改革後は聖書を学ぶことがますます重要視されるようになり、多くの学校はギリシャ語と(場合によっては)ヘブライ語を科目に加えた。両言語の教育は、それらがラテン語系ではないことや、精通した教師の不足が妨げとなった。

16世紀から17世紀にかけてグラマースクールの設立は、例えばティヴァートンの裕福な商人ピーター・ブランデル(英語版)が1604年に創立したブランデル・スクール(英語版)のように貴族や富裕な商人、ギルドによる公共の慈善事業になった。現存するこれらの学校の多くで毎年恒例の行事として「創設者記念日」が祝われている。通常は寄付により地元の少年にラテン語、時としてギリシャ語を教える師匠の賃金を賄うことで授業料を無償化した[6]

日の出から日没までの授業内容は、主にラテン語の丸暗記であった。流暢に操れるようになるために校長によっては英語で話す生徒に対する罰を推奨することもあった。生徒が文章を作成できるになるまでに数年かかり、翻訳を始めるのは学校の最終学年だったであろうが、修了するまでには偉大なラテン語の作家、劇、修辞学に完全に慣れ親しむようになった[7]。初歩的な計算能力や手書きのような技術は軽視され、余った時間に習うか、巡回する公証人のような専門家を教師として教えられた。

1755年、サミュエル・ジョンソンの『辞書』では、グラマースクールを「文法的な教授法で言語を学ぶ学校」と位置付けた[8]。しかしこの時期までにこうした言語に対する需要は大きく減少していた。新たな商業階級は、現代の言語と商業科目を必要としていた[6]18世紀に創立されたグラマースクールのほとんどは、計算と英語も教えた。.[9]。スコットランドではバラの評議会が学校のカリキュラムを更新したため、もはやグラマースクールはスコットランドには存在せず、アバディーン・グラマースクール(英語版)のように名を残すのみである[10]

イングランドでは商業カリキュラムを求める都市の中産階級の圧力は、しばしば新入生から学費を徴収する学校の管財人に支持されたが、従来の基金の後援を受ける校長の抵抗を受けた。1774年マックルスフィールド・グラマースクール(英語版)法や1788年ボルトン・グラマースクール法のような特別な議会法によって制定法を変更できた学校はほとんど無かった[6]。リーズ・グラマースクール(英語版)の管財人と校長の間のこうした対立は大法官庁裁判所(英語版)の著名な訴訟を引き起こした。10年後、当時の大法官エルドン卿(英語版)は、1805年に「基金の本質をかように変える権限はなく、ギリシャ語とラテン語を教えることを目的とした学校にドイツ語やフランス語、数学、そしてギリシャ語とラテン語以外の何であれ学ぼうとする学生を充ててはならない」と判決した[11]。彼は一部の科目を古典的な中核となる科目に加えることが可能とした妥協案を示したが、この裁定はイングランド中のグラマースクールに限定的な先例を与えた。グラマースクールはついに終末を迎えたように思われた[3][9]
ヴィクトリア朝のグラマースクール

19世紀、基金立学校法により結果的にグラマースクールの改革が起こった。グラマースクールは文学的、科学的なカリキュラムに従いながら、同時にしばしば古典的な科目を保った学究的志向の中等学校として再発見された。1840年のグラマースクール法により、グラマースクールの収入を古典的な言語の教育以外に当てることが合法となったが、変更には依然として校長の同意を必要とした。とかくするうちに国内の学校はトーマス・アーノルドが行なったラグビー校の改革に則って再編成し、鉄道の普及によりマールボロ・カレッジ(英語版)(1843年)のように広範なカリキュラムを教える新たな寄宿学校ができた。大学入学を目標とする最初の女子校は、ノース・ロンドン・コレッジット・スクール(英語版)(1850年)と1858年にドロシー・ビール(英語版)が校長に任命されたチェルトナム・レディーズ・カレッジ(英語版)だった[6][9]

1868年パブリック・スクール法(英語版)により主要なパブリックスクール9校を改革したクラレンドン委員会(英語版)をモデルに、基金立グラマースクール782校を審査するためのトーントン委員会(Taunton Commission)が設けられた。委員会は学校の分布が現在の人口と一致しておらず、設備にも大いにばらつきがあり、とりわけ女子向けの設備が限られていると報告した[6][9]


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