この項目では、ラッカースプレーやフェルトペンを用いる落書きについて説明しています。その他の用法については「グラフィティ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
フィンランドにある落書きされたルーフフェルト工場の廃墟
グラフィティ (graffiti) は、美術のアートスタイルに使われる。また、エアロゾールアート (aerosol art) ともいい、デザインされた自分の名前を、スプレーやフェルトペンなどを使い、壁などに描くという行為、およびその文化形態の総称である[1]。グラフィティを描く者のことを、ライター (writer) やペインター (painter) という。日本ではグラフィティを落書き(scribble
)と言い表すこともある[2][3][4]。壁に図像を描く行為は古くは、ラスコー洞窟やローマのカタコンベなどにも見られる。またグラフィティの要素とされる、文字や図像を利用した壁画は、公共物として使用される壁、トイレ、鉄道や地下鉄などで、アメリカやヨーロッパのみならず世界各地で散見されている。1800年代後半にはアメリカでBozo Texinoをはじめとするホーボーと呼ばれる放浪労働者がチョークや工業用クレヨンを使い、他のホーボーと自分たちの物語や放浪に有益な情報を共有するために、移動する列車にグラフィティを描いた。それはモニカー(Moniker)と呼ばれるスタイルで描かれており、初期のモダングラフィティ作品の一つとされている[5]。
欧米のグラフィティミス・ヴァン (en) らによる作品バンクシーによる作品
アメリカにおいてヒップホップ文化から派生/相互作用した(実際はロックからの影響も強いとされる)とされるグラフィティは、1960年代末にフィラデルフィアで始まったと言われており、そこから1970年代にニューヨークのハーレムやブロンクスに代表されるアップタウンを経由して、ダウンタウンに伝わったとされ、スプレーやフェルトペンなどを用いて壁や電車などに落書きをすることから始まったとされる[6]。1980年代には、ダウンタウンの黒人文化とされていたNYのグラフィティが、アッパーミドルの白人文化へ吸収される形で、前衛芸術として認められるようになり、それは映画『ワイルド・スタイル』(1983)や『スタイル・ウォーズ(英語: Style Wars)』(1983)などでフィクションを交えながら描かれている[7]。初期のキース・ヘリングやジャン=ミシェル・バスキアの現代美術のフィールドでの活躍は、アメリカのみならずヨーロッパや日本のアートシーンに影響を与えた。[8][9]
キース・ヘリングのグラフィティは、地下鉄の使用されていない広告掲示板に黒い紙を張り、その上にチョークで絵を描くという穏当なものであった。ジャン=ミシェル・バスキアが10代で芸術活動を始めるきっかけとしてグラフィティ行為があったのは事実だが、世に認められた作品は「グラフィティをモチーフにした作品」であって、グラフィティそのものではない。一方で2人は、アートの世界にグラフィティという文化の存在を知らしめたという点でグラフィティのシーンに大きく貢献したと言われている。このアメリカのグラフィティ文化の源流としてキルロイ参上や、ギャンググラフィティが見てとれる。イギリスにはバンクシーが登場し、大きな話題となった。
日本のグラフィティ