グラディアトゥール
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グラディアトゥール
by John Miller
欧字表記Gladiateur
品種サラブレッド
性別
毛色黒鹿毛
生誕1862年
死没1876年
父モナルク
母ミスグラディエーター
生国 フランス
生産Count F.dela Grange
馬主Count F.dela Grange
調教師Thomas Jennings
競走成績
生涯成績19戦16勝
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グラディアトゥール(Gladiateur、1862年 - 1876年)は、フランスで生まれた競走馬イギリスで調教され史上2頭目、フランス産馬として初のイギリスクラシック三冠馬となり、「第2のエクリプス」と呼ばれた。ダービーステークスを制するなどイギリスで大活躍したことにより、フランスで国民的人気を博した。同国のパリロンシャン競馬場正門にはグラディアトゥールの銅像が建てられている。目次

1 経歴

1.1 誕生・幼少期

1.2 競走馬時代

1.2.1 1864年

1.2.2 1865年

1.2.3 1866年


1.3 種牡馬時代


2 エピソード

3 血統表

4 脚注

5 参考文献

6 外部リンク

経歴
誕生・幼少期

グラディアトゥールは1862年、フレデリック・ラグランジュ伯爵の所有する牧場で生まれた。出生後間もなく母親に右前脚を踏まれ、そのことが原因で繋ぎの腫れと球節の後ろにある骨の炎症(トウ嚢炎)を生涯にわたって抱えることになった。

ラグランジュは生産馬のうち活躍を期待できそうなものを当時競馬の先進国であったイギリスへ移送して調教を施し、そうでないものをフランスに残して調教を施す方針を持っていた。グラディアトゥールはイギリスへ移送されるグループに選ばれた。
競走馬時代
1864年

グラディアトゥールは1864年10月11日イギリスニューマーケット競馬場で行われたクリアウェルステークスでデビューし、勝利を収めた。その後2戦してそれぞれ3着と着外に敗れ、この年のシーズンを終えた。このシーズンのグラディアトゥールはハ行を発症しており、3戦目はその上ひどい咳の症状を起こしていた。
1865年

1865年の3月頃からグラディアトゥールのハ行は緩和し始め、同馬を管理するジェニングス厩舎の看板馬ルマンダリン (Lman Darin) との併せ馬で10馬身以上先着するなど良い動きを見せるようになった。これを受けて陣営はイギリスのクラシック競走第1戦・2000ギニーへの出走を決定。単勝(ウイン)8.0倍と言う低評価だったが2着のアルキデメス (Archimedes) にクビ差先着し、優勝した。この勝利はフランス産馬による初のイギリスクラシック競走制覇であった。グラディアトゥールの生産国フランスとイギリスとは当時政治的な敵対関係にあり、フランスの人々は同馬の勝利を祝う為、夜通し宴を催し盛大に行われたと伝えられている。

2000ギニー優勝後のグラディアトゥールの体調は良好でハ行を起こすこともほとんどなく、クラシック2戦目のダービーステークスへ向けて調整が進められた。レース前に前年のオークス優勝馬フュドレール(Fille de l'Air)と行った併せ馬では、同馬より3.6キロ重い斤量を背負いながら楽々と先着して見せた。施行時に流行した馬インフルエンザの影響で有力な対抗馬が出走しなかったこともあり単勝3.5倍の1番人気に支持されたグラディアトゥールは、タッテナムコーナーを10番手で通過する展開から追い込みを決めて優勝。イギリスクラシック二冠を達成した(史上7頭目、フランス産馬としては初)。馬主のラグランジュ伯爵がフランス皇帝ナポレオンの副将の末裔であったこともあり、フランスの新聞はこの勝利を「ワーテルローの復讐」という見出しで報じた。イギリス競馬の象徴とも言えるダービーを制覇した事に民衆は歓喜し、同馬の勝利を祝う宴が何日も続いたといわれている。ダービーステークス制覇により、グラディアトゥールはフランスの英雄として扱われるようになった。一方、イギリスではフランスが自国のダービージョッケクルブ賞)にイギリス生産馬の出走を認めない[1]のは不公平だという意見が噴出したといわれている。

ダービーステークスを優勝したグラディアトゥールはその11日後の6月11日にフランスのロンシャン競馬場で行われる同国最大の競走であるパリ大賞典(Grand Prix de Paris)に出走した。フランス国民は「英雄」の凱旋を歓迎し、ロンシャン競馬場にはおよそ15万の観客が訪れたといわれている。このレースでグラディアトゥールは2着馬に8馬身差の勝利を飾った。グラディアトゥールの勝利に沸く観客は馬場の柵を押し倒して馬場へなだれ込み、同馬を取り囲んで祝福した。その光景は日が落ちるまで続いたと伝えられている。

パリ大賞典優勝後、グラディアトゥールはイギリスへ戻り、7月25日のドローイングルームステークスを40馬身差で勝利した、翌26日のベンディングメモリアルステークスにも出走したが他に出走馬が集まらず、単走(ウォークオーヴァー)で勝利した。その後ヨーク競馬場のレースに出走する予定であったがハ行が悪化したため断念し、クラシック三冠最終戦のセントレジャーステークスが行われるドンカスターへ移送された。レース直前になってもハ行の状態は改善しなかったが陣営は出走を決断、グラディアトゥールはこのレースを右前脚以外の3本の脚で走ったといわれているが、オークス優勝馬レガリア(Regalia)に3馬身の着差をつけ優勝[2]。史上2頭目、フランス産馬としては初のイギリスクラシック三冠馬となった。

セントレジャーステークス優勝の2日後の9月15日、グラディアトゥールは同じドンカスター競馬場で行われたドンカスターステークスを優勝、その後フランスへ渡って9月24日のプランスアンペアル大賞典(後のロワイヤルオーク賞)を勝ち、さらにイギリスへ戻ってニューマーケット競馬場で行われたニューマーケットダービーを優勝した。10月24日には同じニューマーケット競馬場でケンブリッジシャーステークスという名のハンデキャップ競走に出走したが着外に敗れた。このレースでグラディアトゥールに課された斤量は62.2キロという重いもので、このレースにグラディアトゥールが出走した理由は謎とされている。
1866年

1866年4月4日、グラディアトゥールはニューマーケット競馬場で行われたダービートライアルステークスに出走した。この時グラディアトゥールの右前脚の状態は非常に悪く、とてもレースを走ることの出来る状態ではなかったといわれているが、他の馬がグラディアトゥールとの対戦を避けたお陰で単走で勝利した。翌5日のクラレットステークスも同様に単走で勝利した。その後すぐにフランスへ移送され、ロンシャン競馬場で行われたアンペラトリス大賞典(4月8日)とラクープ(4月15日)を連勝した後イギリスへ戻った。5月31日には当時イギリスの古馬チャンピオン決定戦であったゴールドカップステークスに出走。この時のグラディアトゥールのレース振りは次のように伝えられている。序盤、グラディアトゥールは先頭から250m離れた位置を追走した。しかし騎手が指示を出すと加速を始め、最終的には2着のレガリアに40馬身の着差をつけて優勝した。

10月7日、グラディアトゥールはフランスの古馬チャンピオン決定戦・アンペルール大賞典に出走し、2着馬に3馬身の着差をつけ優勝。このレースを最後にグラディアトゥールは競走馬を引退した。なお、最後のレースとなったアンペルール大賞典は後に競走名をグラディアトゥール賞に改めた。
種牡馬時代

グラディアトゥールはフランスのノルマンディーにあるラグランジュ伯爵の牧場で種牡馬生活を開始した。しかしフランス第二帝政崩壊後ラグランジュ伯爵は財産の大半を失い、さらに1870年普仏戦争が勃発して牧場がプロイセン王国の軍隊に接収されたことでグラディアトゥールを手放さざるを得なくなった。グラディアトゥールはブレンキロンという名のイギリス人に5800ギニーで売却され、ニューマーケットの牧場で繋養されることになった。売却から4年後にブレンキロンが死亡するとグラディアトゥールはセリ市に出品されてレイという名の軍人の手に渡り、その後さらにレイの友人に転売された。

1876年、右前脚のトウ嚢炎が悪化して立つこともままならなくなったグラディアトゥールは安楽死処分された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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